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伊藤雄二郎のさわやか系心理学






8 荒川修作とは何か?

荒川修作といえば、僕は随分前に電通のアドバタイジングという雑誌に養老天命反転地にまつわる論評を書いたことがある。今改めて読み返してみると、荒川の仕事のエッセンスはまだまだ日本でも世界でも汲み尽くされていないということに気づく。その文章をアップしますので、建築と深層心理学に関心のある方はお読みいただくとうれしいです。

当時の編集担当の金原さん、その節はお世話になりました。ご連絡しようと思ったのですが、つながりませんでした。

 

人間を幸福にする建築

夢と建築物

科学哲学者ガストン・バシュラールの言葉に「世界は存在する前に夢見られる」という名文句がある。哲学者でなくても、モノを創る仕事に携わる人ならば、バシュラールの言わんとすることはなんとなく感じとれるであろう。何かを生み出そうとする時、それは初め、あいまいなイメージや、とらえどころのない感触としてわれわれを訪れる。それをなんとか言語化したり、明確にイメージ化して具現化していく過程を、われわれは創造行為と呼ぶのである。

深層心理学に関わる身としては、どうしても“夢”という言葉に気持ちが惹きつけられる。夢とはすなわち人が、明確には意識できないプロセスそのものである。自我には夢を統御することができない。そしてそれこそが創造力の源泉なのである。つまるところあらゆる創造物は夢見られたことの反映なのだ。すべての「作品」は創造者が何を夢みたかを物語っている。作品を注意深く観察すれば、それがいまだ創造者の意識の中で明滅を繰り返していた時点にまでさかのぼることができる。

さて建築である。建築とは、特定の文化圏に生息する人々が、生活することに関し見続けた夢の具現化したものといえる。たとえば日本の建築には、生活にまつわる日本人の集合的無意識、集合的夢が表出している。それらは夢見られた結果なのだ。だが現代人は必ずしも自分たちが見てきた夢に対してハッピーではないようである。近代的な住宅に住む人が、日本独自の伝統的な家屋を訪れると気持ちが安らぐという話をよく耳にする。なぜだろう?現代の建築に欠落しているもので伝統的建築に特徴的なものは何だろう?思いつくままにあげていくと、境界のあいまいさ、外部との交流度の高さ、呼吸度の高さといったものが考えられる。

 

建築物における境界

 

境界を生み出すことは、建築の持つ重要な機能のひとつである。まず地球という人間にとっての本源的な住まいがある。そこに人間が家を建てることで、空間を“うち”と“そと”にわける。この分化により“家族”や“身内”の概念が明確化され、“内面”が誕生する。建築とはすなわち境界を設けることで、人々の内面を育む役割も負っている。学校、オフィスビル、公共施設・・・。現代の建築物の役割の重要な部分は、境界を設けることであり、人間が半ば無意識に感じている境界を現実世界の中で明確に具現化することである。現代においては、このような境界を明らかにする役割を負った建築物がおびただしく増加し、いまなお増加の勢いはとどまることを知らない。

一方、伝統的建築において境界はどのように現れていたであろう。たとえばふすま。純粋に機能という観点から見るとふすまは、空間を仕切るのにあまり適しているとはいえない。形のうえでは仕切られていても、その向こう側の空間の気配は物音は筒抜けである。したがってふすまの向こうで起こっていることは、知らないことにしようという暗黙の合意によってその機能が補われ、空間の仕切りが成立してきた。つまりふすまや障子は、実際の仕切りというよりはシンボルとして機能していた。そこには環境と人間の交流があり、人間の意識の介在する余地が残されていた。

この境界のあいまいさは、そのまま日本人の心性に呼応し、古来より石づくりの壁できっちりと境界を示す習慣のあった人々からの批判にさらされた。批判の要点は、日本人は未だ“個”の確立を成し得ていないということである。だがこの境界のあいまいさが、かつて日本文化の重要な要素であったことは疑いない。のれん、ふすま、屏風・・・。コンクリートの壁と異なり、これらの柔軟な境界はそこに出入りする人々の意識の在り方によって自由にその姿を変えた。そこには人と環境との交流があった。こうした文化に対する批判を日本人はどのように受け止め、どこへ向かおうとしているのだろうか?この問いは、これから日本人がどのような建築を必要としているか、という問いと同義である。

 

 建築における呼吸

 

かつての日本の家屋においては日常であった、外部との交流という点についてはどうだろうか?古い日本の家屋にはたいてい土間がある。そこは、内と外ともいえるあいまいな空間である。土間の存在は外部との接点であり、外部の土を取り込む場でもあった。呼吸度の高さというテーマは、境界の明確さと外部との交流という、ふたつのポイントが交錯するところにある。重要なことは、そこに住む人が息をしやすいか、つまり生きやすいかという条件をどこまで満たしているかということである。結論からいえば、人はあまりに均質化された空間においては、息苦しさを感じることは確かなようである。

日本の住まいに特有の床の間の機能については多くのことが語られてきたが、これを呼吸という観点からとらえたらどうだろう。床の間にかぎらず、部屋の中に「聖なる領域」を作ると、そこに住む人たちの呼吸はどのように変化するだろうか?人が自分にとっての聖なる領域に向き合う時には、ある種の“間”が生まれる。この“間”によって呼吸が深まり、より豊かな空間が演出できる“磁場”が生まれる。呼吸が変化すれば、当然、意識の在り方も変わる。すると夜、見る夢の質も変化し、結果として日常的リアリティーが、まったく異なった様相を呈することになるのである。床の間という独自の磁場を醸し出すスペースの存在のおかげで、周囲の空間の広さが伸縮自在なものとなるのだ。

機能的にさまざまな問題を残しながらも、伝統的な日本の家屋には、呼吸があり間があり、交流があった。そこで重要なことは、住まいが呼吸しているかどうか?そこに住まう人が住まいと共に呼吸できるかどうかであった。

こうしてみると伝統的な日本の建築には現代の建築にはない、数々の利点があるように思われる。だがここで伝統的なものへの回帰を叫ぶのは性急すぎる。人々はあいまいさよりも明確さを選び、交流よりもプライバシーの確保の方を選んだのだから。どちらが正しいという問題ではなく、夢がうつろうように人々の意識も変化するのだ。現代の日本の建築は、個の確立にいそしむ日本人の心性に対応しているようにも思える。だとしたら今、本気で人間を幸福にする建築を考えるとすればわれわれに何ができるだろう?

 

目覚めのための夢

 

深層心理学の最先端においては、環境が人々の意識に呼応するという仮説が認められつつある。この仮説にしたがうなら、環境に働きかけることは、まさにわれわれの無意識に働きかけることであるといえる。さらに、同時に“夢”でもあり、“からだ”でもある“ドリームボディ”と呼ばれる根源的なプロセスの存在の可能性までが語られるにいたり、環境を身体の延長としてとらえることも可能であることに、人々は気づき始めた。環境のひずみは、私たちの夢やからだのひずみなのだ。ならば無意識に働きかけることで、環境を変えることも可能ではないか?たとえば、こんな質問を自分自身にしてみよう。自分は今の住居環境に満足しているだろうか?もし満足していないとしたらどこが?仮に自分の欲求が満たされたとしたら、どんな感じがするだろうか?その時の身体の感じはどうだろう?どんなイメージが浮かぶだろうか?

このような問いをひとつひとつ丁寧に感じ、味わうこと。それはいわば意識して夢みることである。そのことは、とりもなおさず、自らの無意識に働きかける作業に他ならない。現代人は今、環境について本気で夢を見る時期に来ているのではあるまいか。必要なことは意識的に夢を見ることなのだ。さらに、そのことを通して自分の選択に責任を持つことである。

荒川修作の仕事を、これまで考察してきたような、日本人の意識の歴史的な発展軸の延長線上に位置づけるとどうなるだろうか?この作業にはある種の困難がつきまとう。なぜなら人々に夢を見させ、内面を育み、癒しを与えてくれる建築に対し、荒川の建築は、まどろみを拒もうとしているように思われるからだ。いいかえるなら、古い知覚の営みの停止をもくろむ荒川の仕事は“夢”という文脈をも乗り越えようとする建築だからである。それは日本的な優しさやくつろぎの空間とはまったく位相を異にするものである。

逆にいえば、それはいかなる夢にもからめとられまいという意図、目覚めていようとする意志の具現といえようか。荒川の建築は人が住むというよりも、建築が人に棲むことを目的としているようにさえ思える。そこで建築の側に、からみとられまいという意志が働く時、人は主体を奪還することができるのである。そこにはもはやまどろみの可能性はない。

洗い出された身体意識と透徹した意識。そこでは無意識は夢ではなくもっともソリッドな現実にこそ現れる。その時、人は外部に自らの夢を投影し続けるのをやめ、剥き出しのリアリティーと直面する。それこそがある意味究極の癒しといえるものかもしれない。なぜなら現実と夢の一致した世界では、人はもう夢を見る必要がないからだ。慣れ親しんだ知覚の流れの停止、解体、そして再生。20世紀という夢から醒めるために夢見られる21世紀の建築は、これまで人類が見つづけてきた夢を乗り越えるものであるべきなのだ。

※この原稿は電通の「月刊アドバタイジング」481号に掲載されたものに微修正を加えたものです。
                                                2005.6.17


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