伊藤雄二郎のさわやか系心理学







5 笑いの深層心理学

フロイト、ユング、アサジョーリ 

 深層心理学の流れを作ったフロイトとユング。その流れと関わりながらもそ
れとは異質な流れを生み出したロベルト・アサジョーリ。心理学の流れの中で
は、彼らはそれなりの形で位置付けられているが、専門家は厳密さを重んじる
ゆえに、その分類は誰にでも理解できるような代物ではない。小生としてはそ
れが甚だフマンである。(みなみしんぼう風)

 学問は人様の役に立ってこそ初めて意味を持つ。もっと噛み砕いて誰にでも
わかるように、かつ興味が持てるように語られてこそ、学問に通った生命が、
今を生きる私たちの生命と触れ合うことができるのではなかろうか?専門家の
書いた難しいだけで、イメージの湧かない文章に出くわすたびに、私は「もっ
とわかりやすくかつ面白く伝えられないものだろうか」と感じてしまう。

 実際、難解と言われる文章でも整理してみるとそのコア・メッセージは案外
に単純で簡単に図式化できるようなことが往々にしてある。「世間で難解と思わ
れているトピックをわかりやすく解きほぐす作業を通し、人々の生活に潤いと
笑いをもたらす」という一文を笑いのシルクロードのミッションに新たに追加
する必要を感じる今日この頃である。


フロイトとビートたけし


 テクノロジーの驚異的な発展は、私たちの生活を激変させた。だが、私たち
の内面はテクノロジーほどには進化していない。したがって私たちが向き合う
べき問題もその深層においては、神話の時代から現代にいたるまで、ほぼ普遍
性を持つと言えよう。

 とはいえ、人によって生涯において取り組むべきテーマは異なっているよう
である。というよりも何を生涯のテーマとするかに、人それぞれの個別性が現
れるとも言ってもいいかもしれない。学問の世界であれ、笑いの世界であれ、
巨人と呼ばれるほどの存在であれば、それぞれに生涯かけて追求すべきテーマ
を持っている。

 例えば、お笑い界の巨人、ビートたけしが追求し続けているテーマは、笑い、
暴力性、抑圧的な力との闘争、死・・・といったキーワードで表される。これ
と類似するテーマを追求しつづけた心理学者といえばやはりフロイトを思い浮
かべざるを得ない。もちろんフロイト、ビートたけし共にセックスとエロスは
生涯を貫く重要なテーマである。

 またビートたけしの笑いは、一見滅茶苦茶なことを言っているように見えて、
実は緻密な計算が為されていたことは多くのお笑いファンの認めるところであ
る。その笑いの構造は、メタファー、アイロニー、反語法というレトリックの
展開で辿ることが出来るロジカルな組み上げが為されていた。その意味でもビ
ートたけしはフロイト的な芸人であったと言える。


お笑い界のユング
 
 となるとユングに対応するお笑い芸人は誰か?これはやはり松ちゃん以外に
考えられない。あのシュールな展開といい、想像力を働かせないと理解不能な
ネタといい、イマジネーションの飛躍のスゴサといいある時期の松ちゃんの笑
いは、きわめてユング的であった。

「日常性の陰に隠された不条理」

  松ちゃんが一番光を放つのがこのテーマであり、その意味でも松ちゃんは、
きわめてユング的な芸人と言える。そのあたりに松ちゃんの本領があると思う
のだが、松ちゃんがユング的な世界を展開していたのは、1990年代の半ば
くらいまでで最近はそういう系列のノリは影をひそめている。やはりそうした
シュールな世界を、8時台のテレビで放映するのは困難なのであろう。ゴール
デンタイムに「ユングとシュールリアリズム」などという番組を放映しても、
視聴者の食いつきは期待できまい。

  ちなみに性に対するこだわりという点においては、フロイト、ユング、た
けし、松ちゃんいずれも尋常ならざるものがあり、さすがは巨人は違うと言わ
ざるを得ない。
  

哲人たちの見たもの

 ではアサジョーリを、お笑い芸人になぞらえるとどうなるか?
「地下室もいいけど、僕はベランダの方が好きだな」これはアサジョーリが実
際に遺した言葉である。もちろん、フロイトとユングが地下室で論争中、アサ
ジョーリがベランダに行ってしまったという歴史的事実はない。しかし、アサ
ジョーリならいかにもやりそうである。その軽妙なフットワーク、柔軟な発想
力・・・とイメージしてみると、つい明石家さんまの姿が浮かんでしまう。無
限の返し技を持ちながら瞬間的に最高の手を切り返してみせる芸風。

 では、明石家さんまがお笑い界のアサジョーリかというとそれはちょっとイ
メージが違う。アサジョーリと重ね合わせることのできる芸人は現代日本のお
笑い界にはちょっと見当たらない。長い日本の歴史の中から、アサジョーリに
近い芸風の持ち主を探してみると、お笑い芸人ではないが、一休が浮上する。

 アサジョーリも一休も、学者や僧侶というよりは哲人、哲人というよりは詩
人のような印象がある。そして詩人というよりは優れたストーリー・テラーで
ある。二人とも生の本質を探究し続け、人間の弱さ、悲しさと向き合いつつそれ
を優れた知性と独特の機知とユーモアで乗り越えて行った。


一休とアサジョーリ

 死の床にある一休が動揺する弟子たちのために、箱をひとつ形見として遺し
たという。一休は、困ったことがあったときに、その箱を開けるように弟子た
ちに伝えた後にこの世を去る。
 頼りにしていた師匠に去られ、弟子たちは大いに困惑かつ動揺したという。
そして師に告げられたとおりに遺された箱を開けてみた。そこには次のように
書かれた一枚の紙が入っていたという・・・。

 「心配するな。なんとかなるさ」

 フロイトとユングが遂に伝えることが出来ず、アサジョーリが伝えてくれた
何か。それはいかなる状況においても決して希望を失わない感性である。
アサジョーリと一休に相通じるものがあるとすれば、それは希望にも似た笑い
のセンスである。
                                                 2005.3.10






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