笑いの宅急便 バックナンバー1



 1 爆笑する技術

腹の底から笑えてますか?
心理学の視点から笑いを撃つ








第一便 笑いの達人 

 最近腹の底から笑うことが減ってきたかも・・・。こんな風にわが身を振り返ることの出来る人はまだゆとりのある人と言えるかもしれない。周囲を見回してみて、いつでもまっすぐであたたかな笑顔を見せられる人が、どれだけいるだろうか?ある人がこんなことを言った。「すっきりした笑い顔が思い浮かばない人がいる。そういう人はなんとかしてやらなきゃいけないかもしれん」と。時代状況のせいだろうか?笑えるゆとりのある人が減っているのだろうか?
 今の世の中、能力の高い人物、奥行きや幅のある人物など刺激的な人物には事欠かないが、一緒にいてハッピーになる人物といえば、なんと言っても自然に、突き抜けた笑いを放てる人たちである。おかしさから来る笑いではなく、生きることの本質的な喜びと結びついた笑い。私の周りにも、そんな極上の笑いを放てる人が何人かいる。
 スカッと突き抜けた笑い顔を見せてくれる人とは何度でも会いたくなる。彼らの周囲には自然と人が集まってくる。そんな笑いの達人たちから、私はたくさんのものを与えられてきた。そこで今回は少しみなさんに笑いのおすそわけをしたいと思う。彼らの突き抜けた笑顔や笑い声。その秘密を解き明かして行こう。
                                                  2004.11.4
                                              

第二便 「おかしい」笑いと「楽しい」笑い 

笑いの達人への第一歩は、おかしくて笑うのと楽しくて笑うのとの違いを明確に理解することである。そもそも「おかしい」というのは、どこか「おかしい」つまり「どこか変」なことと結びついている。したがって「おかしくて」笑う笑いは、自分とは違うために、「変」な存在を「おかしい」と笑う感覚につながる。下手をすると「あいつおかしいよね」という差別につながる笑いである。中学校の先生をしていた知人から聞いた話だが、どこのクラスにも「ちょっとおかしいやつ」というのはいるものである。大抵の先生が、その「おかしい」子をネタに笑いを取るようなことをやってしまうというのである。
 笑いの達人たちもおかしければ当然笑う。だが、彼らの笑いはそれで終わらない。彼らの笑いは楽しくあたたかく、「おかしさ」の壁を突き破るパワーがある。彼らが笑うと周囲がぱっと明るくなるのである。そこでは誰一人排除されることがない。
 私のコンサルティングの師匠にあたるY氏も笑いの達人の1人である。私は月に1回、この人を囲んでの定例会の出席しているが、この会合に参加するとなぜか心も身体も元気になる。これは私だけでなく他の多くの参加者も体験していることである。彼が笑うと、誰もが「自分もこの輪の中にいていいんだな」と感じるのである。
 周囲の人たちを元気にする。それが「笑いの達人」の条件である。ではそんな「笑いの達人」の代表格であるY氏はどんな生き方、考え方をしているのであろう。
                                                2004.11.12
                                              

第三便 笑いの質について考える 

 今年75歳になるビジネス・コンサルタントのY氏は、コンサルティングの世界ではパイオニア的存在である。そのY氏と実際に接してみてまず印象に残るのは、その豪快な笑い声である。この笑い声を耳にしただけで、長年患っていた慢性疾患がたちどころに治ってしまった人がいるとかいないとかいう話である。実際、Y氏の笑い声を耳にすると元気になるという人は多い。明るい笑い声というものはだいたいが人を元気にする力があるがそれにも多様なレベルや質の違いがある。少し笑いの質について考えてみよう。
 私の住んでいる高円寺界隈は、マニアックな文化の発信地であり街を歩けば、必ず何かしら笑えるアイテムに出くわす。とりわけ、高円寺北口あづま通り商店街近辺に漂う笑いの質は、Y氏のような豪快な笑いとはちょっと異なるマニアックなものである。この間笑ったのが、ある古本屋の宣伝文句である。これは店先の黒板に実際に書かれていたものである。
 
  “しょんぼりセールやります。来てがっかり買ってがっかり”
  “がっかり商品少量入荷予定”
 
 私はこのコピーというか、宣伝文句には、笑いを通り越し感動してしまった。思わず店に飛び込み目についた本を2冊ほど手に取りレジで店主に「あの黒板に書かれているコピーには感動しました」と伝えてしまった。店主は私からの猛烈なラブコールに対し「ありがとうございます。おかげさまでなんとか1年もちこたえました」と答えてくれた。私は高円寺あづま通り商店街のこの古本屋がすっかり気に入ってしまった。入り口に貼ってあるジャイアント馬場の写真も泣かせる。
 高円寺にはこういう笑いがよく似合う。どこか哀感も漂わせながら、口元にクスッとこみあげてくる笑い。私はこういうタイプの笑いも大好きである。ちなみに、この日手にした本のタイトルを見ると学研ムー特別編集の『魔術』と、昭和46年に出版されたプロ騎士升田幸三の『勝負・・・人生日々これ戦場』であった。勢いというものはオソロシイ。
 今日はマニアックな笑いの話に終始してちっともY氏の笑い声の魅力に踏み込めませんでした。第4便をお楽しみに。
                                                 2004.11.23

第四便 オカシイ・・・。 

 オカシイ・・・。おかしくて笑ってしまう。このところ笑いをこらえるのに苦労する場面に毎日のように出くわす。何度見ても笑いそうになってしまう。新札の野口英世のヘアスタイル・・・。これを見てみんなおかしくならないのだろうか?私は財布から千円札を取り出すたびに、こみあげてくる笑いの衝動を抑えるのに苦労している。今のところ千円札を見て爆笑している人は目撃していないから、この現象は私だけのものなのか?それとも、みんな本当は笑いたいのにこらえているのだろうか?

 先日も高円寺北口あづま通りにある商店街の“ハティフナット”という喫茶店で代金を支払う際、運悪く新札を引いてしまった。笑いというのは、タイミングや状況に左右されるものであり、笑ってはマズイ状況では余計に笑いの衝動が増幅されたりするものである。その時はレジの若い男女を前に「この新札ちょっとおかしいですよね、ハハハ」などと話しかけてなんとかごまかそうとした。
 男性の側が「そうですね。違和感ありますよね」と応えてくれて、幸い本格的な爆笑は免れた。(違和感・・・)
 この時ほど「笑いというのは、人間が出会う説明のつかない違和感というものをまず克服するために示す反応である」という文化人類学者山口昌男氏の定義にリアリティーを感じたこともない。それにしてもレジで財布から札を取り出すなり爆笑する客なんて、店側からしたら、かなりブキミな客に違いない。行けなくなってしまった店が増えなくてよかった。
 
 笑いのシルクロードの基本コンセプトは、違和感から生じる笑いを乗り越えるという志の高いもののはず。こういう質の笑いは、我々のコンセプトからは最も遠いものである。そうは言ってもやっぱりオカシイものはオカシイのだ。まさか造幣局は、暗い世相を吹き飛ばし日本中を笑いの渦に巻き込もうというコンセプトでこのデザインを考えたとか・・・。
 ちなみに樋口一葉記念館は来場者が爆発的に増えているのに、野口英世記念館は、来場者が減っていると言う。やっぱりみんなうすうすはおかしいと感じているに違いない。
 毎日、笑えるネタばかりでなかなか本題に入れない。早く野口英世さんのヘアスタイルに慣れないと。
                                                 2004.11.30
                                              

第五便 もしも・・・。 

 今日こそ本題に入りたい。しかし、まだ野口英世氏のヘアスタイルのことが頭を離れない。何しろ財布からお金をだすたびに、お目にかかるのである。考えてみればこれは大変なことである。家族の写真を持ち歩いている人がいるが、そういう人でもその写真を1日に何度も見るわけではない。一方、野口英世氏の肖像に関しては、日本中の人々が1日に何回という高い頻度で目にするのである。あのヘアスタイルも含め・・・。

 日本中であのヘアスタイルが流行ったりしたらどうしよう?今の世の中何が流行るか予測がつかない。大切な仕事の関係者があのヘアスタイルでキメて来たりしたら・・・。その場をしのぎきる自信が私にはない。
                                               2004.12.7                                                

第六便 笑いの達人への道・・・ある言い訳

 今日こそ本題に入りたい。高円寺の古本屋や、野口英世さんのヘアスタイルやその他もろもろの私たちを楽しませてくれる面白いことは忘れ、今日こそ屈折のないまっすぐな笑いについて語りたい。
 本来このコラムは笑いの達人たちの世界観を解き明かし、誰もが笑いの達人として再生するための道しるべとなるべくスタートしたはずである。かくも高い志を持ってスタートしたはずなのにどうも話が横道にそれてしまうのは、世の中に「オカシイ」ものが満ち溢れすぎているためである。

 そもそも笑いのシルクロードの目指すところは、世間に流布している「オカシイ」笑いを乗り越え、さらなる笑いの高みへと向かうための礎となることにある。しかしながら「オカシイ」ことを「おかしい」と感じ取るためには、健全な感受性が必要となる。現代社会にはたくさんの「オカシイ」ことが跋扈している。新聞を賑わす笑うに笑えない「オカシイ」ことも含め、オカシイことをきちんとおかしいと感じ取るバランスの取れた感受性。それこそが笑いの達人に求められるベーシックな素養なのである。

 しかるに笑いの達人への道の途上で、我々は必然的に「オカシイ」笑いにも敏感にならざるを得ないという逆説的な事実に気づかされるのである。禅の修行者が、悟りを得るまでの過程で「魔境」を体験するように、笑いの達人への道を志す者が一時的に「オカシイ」笑いに鋭敏になるのも、ある意味致し方のない事なのかもしれない。これは修行の副作用のようなものと見なされるべきであろう。

 笑いの達人への道を歩む者は、自らが求める喜びに溢れた格調高い笑いに辿り着く道の途上で何度も自らが邪道と見なす「オカシイ」笑いの誘惑にさらされるであろう。禅の修行者にとって魔境は危険な誘惑に満ちており、その誘惑に屈することは修行の挫折を意味する。一方、笑いの達人を志す者は、「オカシイ」笑いの誘惑にさらされたら、アッサリ誘惑に屈し爆笑してしまうにかぎる。なぜならそのような柔軟な態度こそが、笑いの達人へを志す者には求められるからである。この意味において笑いの達人への道は、禅よりも老荘哲学により近いと言えるかもしれない。

 とはいえ、質実剛健なイメージのある禅の歴史の途上でも一休のようなしゃれたユーモア感覚の持ち主が現れるぐらいだから、禅の伝統が柔軟性を要求される笑いのセンスと無縁だったとも思われない。そういえば堅いイメージのあるインドの哲人クリシュナムルティも、覚醒を得るためには、ユーモアのある態度が必要であるというようなことを言っていた・・・ような気がする。しかるに笑いの道はスピリチュアルな道とも親和性を持つものであると断言することができる。そう・・・。笑いの達人に最も求められる素養・・・。それは、柔軟な発想力である。それこそが、真摯な求道者が陥りがちな落とし穴から、求道者たちを守ってくれる。柔軟な発想力は、究極の笑いを目指して歩む者にとって、最も有力かつ唯一の武器である。

 さて、現実に立ち戻り我々の周りの「笑いの達人たち」の生態をもう一度見直してみよう。みなさんの周りにもいるだろうか?一緒にいるだけでエキサイティングな刺激を与えてくれ、人々に勇気と希望を与えてくれる楽しい人物。彼らに何か共通項は見出せるだろうか?
私の周囲の笑いの達人たちについて言えば、まず彼らは年齢に関わりなく柔軟で若々しい頭脳を備えている点が共通している。私が理想の笑いの達人と認めているY氏は75歳という年齢をまったく問題にしないほど、その発想も行動力も若々しい。

 では彼らはいかにして、その発想の柔軟さを獲得したのであろうか?私は自分の身の周りの笑いの達人たちと交流するうちにある結論に達した。その結論とは、彼らの発想の柔軟性の秘密は、彼らに特有の時間感覚と密接に結びついているというものである。
笑いの達人とその時間感覚・・・。イキナリ本質的な問題に切り込んでしまったが、このテーマについては、少し詳しく論じていきたい。このテーマは我々凡人がいかに日々直面する悩みや問題を乗り越えるかという問いかけとも重なる大切なテーマである。ご期待ください。
                                                2004.12.10
                                              第7便につづく


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