笑いの宅急便 バックナンバー3



 1 爆笑する技術

腹の底から笑えてますか?
心理学の視点から笑いを撃つ








第10便 笑いの文化史学

2005年最初のテーマはお笑い界の巨人ビートたけしである。

ビート武という芸人を心底タダモノではないと感じ始めたのは、彼がまだ「元気が出るテレビ」という番組をやっていた頃のこと。この番組の出演者たちは、たけし社長率いる企画会社の社員という設定で、村おこしや町おこしのような企画を次々と立ち上げ展開させていた。番組の最後には必ずたけし社長が締めの一言を発するのがお約束になっていた。そこである時、彼はこんなコメントを発したのである。

 「えー、みなさん、もうそろそろうすうす気がついて来ていると思うのですが・・・。このままではダメになってしまう。逃げ場ないですからね。元気村とかいろんなことやってますから・・・。でもご安心ください。もう少しの辛抱ですから・・・」
 例の独特のひねりの効いた口調で語られたたけしのこのコメントに会場はなんと爆笑したのである。

(オソロシイ芸人が現れたものだ)当時大学生だった私は、この一言でお笑いというジャンルに対する認識を完全に改めざるを得なくなったのである。その頃、会場の客層は女子大生を主軸とした若い女性がほとんどであった。彼女たちがたけしの放ったコメントの深層をどこまで汲み取っていたかは別として、ともかくたけしはこのコメントで笑いを取ったのである。

 それまでのお笑い界は、ドリフターズや萩本欽一といったチャップリン以来のドタバタ系の系譜を継ぐ、わかりやすい芸風が主流だった。この種の芸人にとっては日常からの逸脱が、基本的なテーマとなる。これに対したけしは、世間に対するアウトサイダー的な立ち位置から、軽快なフットワークを駆使し既存の権威や常識に対しジャブを放ち、世の欺瞞を暴くというこれまでにない芸風をひっさげて登場した。

しかし、たけしの存在が世間に浸透するにつれ、この立ち位置も変更を余儀なくされてきたのである。たけしは自分ではジャブのつもりで放ったパンチが予想以上の重みを持ち相手をノックアウトしてしまう可能性も視野に入れ始めていた。さらには自らが立ち上げた企画がカルチャーとして流布していく過程で、自身の標的対象だったはずの世間の中心に自らが鎮座させられてしまう危険性をも彼は敏感に感じ取っていた。もはやアウトサイダーではいられなくなるであろう自身の立ち位置を当時の彼は必死で模索していのかもしれない。
これほどまでに醒めた目線で自らの立ち位置を確認し、そのうえで自らの抱えた焦燥感や閉塞感を表出させることで笑いを取ってしまう芸などそれまでのお笑いの世界では有り得ないことだった。

先のたけしのコメントの最後の「もう少しの辛抱ですから・・・」を周囲はどう受け取っていたのであろうか?企画を全面的に更新することだったのか、番組を打ち切ることだったのか、あるいは武自身がお笑い以外のジャンルへ自らの進むべきベクトルを転換させていくことだったのか、具体的なことは何一つ明かされないままだった。ともあれその後しばらくはこの番組は続いていたように記憶している。たけし自身が当時直面していたどん詰まりの状態といかに格闘し、乗り越えたかについては、その後の彼が歩んだ道のりが示してくれている。

ビートたけし。昭和から平成にかけての日本における笑いの文化史を語るうえで決してはずすことの出来ない巨人。彼は、常に自分が笑うことよりもまず人を笑わせることを求められる立場に身を置いていた。笑いのシルクロードがフォーカスしているのは、笑わせる側というよりはむしろ笑う主体の方である。だが、笑わせる側の達人たりえるためには、たとえ感覚的な理解であったにしろ、人間に備わった笑いという感情を熟知している必要があるのは言うまでもない。昭和から平成にかけての日本において笑いの達人への道を歩むことを志すのなら、ビートたけしは避けては通れまい。というわけで、次回の宅急便はたけしさんの芸(ビートたけしその人ではない)の心理学的分析へと進みます。
                                                  2005.1.7
                                              (11便へと続く)

第11便 北野 武・・・・・笑いの深層心理学

 宅急便の10便を読んだ友人から次のように書かれたメールが届いた。
「そうですか、ついにタケシですか。後戻りできなくなってきましたね」

 ビートたけしについて語ることは、人類にとっての根源的なテーマに触れることを意味する。そのテーマは誰もが知っている単純な一語によって正確に名指すことができる。それは“死”
 
 たけしの死に対するイメージの描き方は、おとこの心を色濃く抱えた人間のものである。おとこの心は、死と対峙し死に闘いを挑もうとする。「殺(と)られてたまるか」が、こうした心性の合言葉である。
 おんなのココロ(それは必ずしも女性に色濃く宿るとはかぎらない)は、比較的容易に死を受容する。そして厄介なことに私たち人類は双方のココロを自らの内に宿しながら、お互いがお互いの存在を感じあうことが出来ずにいる。
 
 たけしは徹頭徹尾、男であり男の子であった。そんなたけしの鋭敏な感受性は、死の翳を誰よりも早くキャッチする。終わりの翳を全身の細胞で感じながら彼は笑いの中心に居た。
 
 こんな芸人居ていいのか?
 
 彼が体現していたのは、ぎりぎりまで張りつめ、とんがった男のこころだった。一人では立ち続けるのが困難な張りつめたおとこの心は、自分の中に棲むおんなのこころとは永遠に出遭うことができない。必然的に彼は生身の女性を通しておんなのこころを求める。おんなのやわらかなこころを通して、死をすみやかに受容できるように。そんな風におんなのこころを求め、女性を愛するおとこは全身全霊でおんなのこころを愛さずにはいられない。

 たけしさんの芸、たけしさんの笑いは、あの頃の僕たちにそんなことを教えてくれた。
 
 ビートたけし。彼はその偉大な半生の大半をオネエチャンを追い求めることに費やした。おそらくは自らの携えた巨大な“死”のイメージと闇の中で和解し再生するために。
                                                 2005.1.11
                                              (第12便に続く)

第12便 オネスティ

 先日テレビで流れているコマーシャルを観ていて思わず爆笑してしまうことがあった。それは金融商品のコマーシャルなのだが、なんとビリー・ジョエルの「オネスティ」のサビの部分がバックに流れているのである。
 その部分の歌詞は次のようなものである。
 
  Honesty such a lonely word everyone is so untrue 
 Honesty hardly ever heard mostly what I need from you
 
 簡単に訳すと「オネスティ(正直)・・・。なんて虚しい響きを持つ言葉なんだろう。みんなみんな嘘つきだ。正直で誠実であること。それこそ僕が君に一番望んでいることなのに、正直な言葉なんて滅多に耳にすることがない」
 
 哀愁を帯びた旋律と深みのある歌詞が相まって聴く者の心を揺さぶる名曲だが、これが金融商品のコマーシャルの背後に流れているとなるとトンデモナイものに聞こえてくる。こんな歌詞がバックに流れている金融商品のコマーシャル・・・。なんと意表を突いた作りだろうか。「こんなコマーシャル信じちゃいけませんぜ」と暗にほのめかしているのだろうか?その背後に流れるメッセージに気づいた人が「その正直さが気に入った」とその商品を申し込むことまで計算しているとか・・・。だとしたらスゴイね。
 さしずめたけしさんだったら、「もうハマリ過ぎててオイラ驚くより先に笑っちゃったよ」とでもコメントするかもしれない。

 正直さというのは、たけしのギャグの重要なテーマのひとつであった。誰もがあたりさわりのないところでお茶を濁そうとしているのを彼の笑いは許そうとしなかった。そんな彼のギャグのベクトルは常に剥き出しの現実を突きつける方向を向いていた。彼の笑いのコア・メッセージは「オメエラ、みんな嘘つきじゃねーか」ということだった。ストレートにこれをやると社会から抹殺されかねない。真実を突きつける者が十字架にかけられるという出来事を我々は歴史の中で何度も体験してきている。

 たけしが生き延びられたのは、彼にお笑いという身についた芸があったからである。プロの芸が彼を守ったのだ。そうして彼は笑いの構造を変革していった。従来のドタバタ系の笑いにおいて観る側は観客として安心して観て居られたのに対し、だけしの笑いは観客を巻き込む破壊的なパワーに満ち溢れていた。誰かを笑っているつもりが、「オマエだってそうだろうが・・・」と身も蓋もない現実を突きつけられてしまう。
 
 このような現実を突きつける系の笑いにおいては、観客も参加しないわけにはいかなくなる。自分を問わずにはいられないのである。この意味でたけしの笑いは、従来の笑う者と笑われる者の上に成り立つ構造をも突き崩す破壊的なパワーを秘めていた。彼の笑いにおいては、笑う者こそが笑われる者なのだ。たけしは自らの発する言葉が自分自身に対しても跳ね返ってくることを知りながら敢えて破壊的な活動を推し進めていったのである。そこには何かしら死の衝動(タナトス)のような力が働いているようだった。
                                                 2005.1.14
                                               (13便に続く)

第13便 エロス(生の衝動)とタナトス(死の衝動)

 エロス(生の欲動)とタナトス(死の衝動)の狭間で揺れ動く笑いの巨人。それが80年代のビートたけしだった。
 
 この時期の彼の仕事のエッセンスは、笑いというベールに覆い隠しながら、人々に禁断のゲートを垣間見せることだった。
 
 そして今・・・。
 
 多くの人が禁断のゲートの意味に気づきつつある。
 この門をくぐるか否かは個々の選択に委ねられている。

 禁断のゲートを自らを傷つけることなく、くぐりぬけるために人は死に対する感受性を養い育てることを求められる。それは例えば詩的感受性と言いかえてもいい。「詩」というのは「死」の世界への扉だからである。
 
 生(エロス)と死(タナトス)をつなぐことが詩人の使命であると信じていたリルケは次のような言葉を遺した。

 「死を正しく理解し、祝うものは、誰でもまた同時に生を賛美する」
 
 ここに至って私たちの、爆笑力は至高の領域へと昇りつめる。
 爆笑は爆昇へと変容する。
 その時、人は真の意味で腹の底から笑うことができる。
 
 つまるところ爆笑する技術を究めるために最も必要とされる素養は詩的感受性なのである。
                                                 2005.1.18
                                               14便につづく

※さわやか系心理学 3 「詩的感受性と死」に、13便の内容をさらに掘り下げて考察しています。

第14便 笑えない夜に

 生きているかぎり誰にでも笑えない夜というやつは訪れるものである。
笑えない時でもとりあえず笑顔を作れば、笑ったと同じホルモンが出るという理論を耳にしたことがある。だが、どうなんだろう?作り笑いなどとてもじゃないがする気にもならないという状況で、無理矢理笑ってホルモンをひねりだすことが本当に人をハッピーにしてくれるのだろうか?だいたい私たちはいつ頃からつくり笑いなんていうものを覚えてしまったのだろう?

大人になるということ

2004年12月21日。笑いの達人Y氏との合同講演の時のこと。「明るく元気になる講演」というタイトルもスゴイがこのテーマで150名近くの人が集まるというのもすごい。

講演の後、一人の若者が私の所にやってきた。彼は20才の大学生でその2週間ほど前にある学会の主催で開かれた講演会にも来てくれた若者である。この日の4,000円という受講費は、学生の彼にとっては安くない料金であったはずだ。彼はその日の受講料を「なんとかひねりだし」来てくれたのだという。

彼は私の前に立つとこんな風に話してくれた。
「今日、僕が来たのは、先生に会いたかったからなんですよ。前の講演会の時に、こういう大人もいるのかと思ったんです。僕もやがて大人になっていく・・・。でも、こんな大人もいるんだと思ってうれしくて彼女に先生の話をしたんですよ。実はあの講演会の日、彼女と会う予定だったのに、すっぽかしちゃったんですね。てっきり怒られるかと思ってたんですけど、先生の話をしたら彼女が“いい人に会えてよかったわね”って喜んでくれたんです」

こんな大人ってどんな大人だろう?おそらくは、子どもの心を残したままで平気で生きている大人という意味であろう。

「僕もやがて大人になっていく」と語る彼は何を予感しているのだろう?
大人になるとは、ときめきを失うことなのだろうか?
大人になることは、心の底から笑えない夜が増えることなのだろうか?

だとしたら誰が大人になんてなりたがるだろう。

自分の中の子どもの感性を否定しないこと。
これは笑いの達人への道を歩む際の基本的な条件のひとつである。

子ども心を守るには?
その若者と最初に会った講演会で、私は聴衆の前で少しだけ笑いの達人Y氏の話をした。その時の様子が彼の中では、自分が彼女に子どもの心を残した大人に出会った話をする時の感じと重なったのだそうだ。大人の中の子どものスピリットはそんな風に継承されていくものなのだろうか。

現代の笑えない状況のひとつに、子どもたちがちゃんと子どもをやっていられないという深刻な事態が挙げられる。これはひとえに、大人の中の子どものスピリットがほぼ絶滅状態にあることともリンクしている。
私は様々な場で、大人の中の子どものスピリットが、真綿で首を締められるようにして窒息させられる場面を目にしてきた。

一方では76歳になっても、ときめいている人がいる。彼はビジネス社会で数々の修羅場をくぐりながら、まだ子どものスピリットを失っていないのである。いや、それどころか、その子ども心は年々活性化しているようにも思える。

子どものスピリットを守るには
先日開催されたY氏を囲んでの定例会でもその子ども心は元気であった。Y氏が自分で考案した数式を用いての、シミュレーションの方法を解説していたときのこと。それによって何千人という企業人が救われたという伝説的数式だが、この数式の使い方の詳細に関しては氏の160冊に及ぶ著書にも詳しくは記されていない。これはいわゆる企業秘密にあたるものである。だが、このところY氏は次世代を育てるという目的のため、これまでは公開しなかった手法の数々を身近なメンバーに惜しげもなく伝えようとしてくれている。その日、明かされた手法そのものは、思いの他シンプルな形にフォーマット化されていた。
 
 私が「これだとシミュレーション用のソフト作れますよね」と問い掛けたその直後。
 「それがもう作ってあるんだ、ダッハッハハハハハー
と例の高笑いが炸裂したのである。
 その時の達人の表情ときたら、古き良き時代の夏休みに仲間の中で一番たくさんカブトムシをつかまえた時の少年そのものであった。本当に普段ビジネスの話をしているときの鋭いまなざしはどこへ行ったやらである。

 年を重ねれば重ねるほど、磨きがかかる子ども心。その秘訣は一体どこにあるのだろう?

 無条件に関わること
 Y氏はこのところこれまでの大企業中心のコンサルティングから、中小企業や個人相手のコンサルティング、カウンセリングに活動の範囲を広げつつある。その活動の幅の広さ、仕事に対する視点の高さもさることながら、自分にとっては1銭の得にもならない仕事にも惜しげなく情熱を燃やしつづける姿勢はこれまでに出会ったどのコンサルタントにも見られないものだった。
 
 利害関係ぬきでつきあえる人がどれだけ身の回りにいるかどうか。これが大人の中の子ども心が生き続けられるかどうかの分かれ目になる。ビジネス社会というのは、相手を利用価値で判断する世界である。ビジネスを媒介に人と関係を持つ以上、それはある意味致し方のないことである。だが、すべての人間関係を利害という観点からのみ判断するようになったら、子ども心は確実に窒息してしまう。
 逆に達人の子ども心が今も健在という事実は、彼がビジネス社会の中でしのぎを削りながらも、利害を越えた部分での人との関わりも続けてきたことを証明している。

 利害を越えて人と関わる。言葉にするのはやさしいが、これは並みのことではない。その真の意味を知るために人は利害関係での関わりという領域を通過しなければならない。人とのビジネス的な関わりを究めたからこそ、利害を越えた関わりも選択できるという逆説的な事実を、Y氏の生き方は示してくれている。
自分の中の子どものスピリットを守って生きるには、人は並みの大人以上にタフな必要がある。そうして初めて人は自らの内なる子どもの領域を守ることができるのである。

タフな大人の内側に潜む子ども心は、笑えない夜に無理に笑おうとはしない。その代わり子どもの時にやったように、ちょっとした儀式をして笑えない気持ちと静かにサヨナラをする。

 子どものスピリットが好む儀式・・・?
それについてはまた次回ということで・・・。
                                                 2005.1.26
                                                15便に続く

第15便 ネイティブアメリカンの智慧
      イマジナル(想像界的)な世界への通路

マリリン・ヤングバード。ローリング・サンダー、デニス・バンクス。
私がこれまで、何らかの形で触れ合う機会を得たネイティブアメリカンのメディスン・ウーマン、メディスン・マンたち。彼らの伝統は、イマジナル(想像界的)な世界との絆を失わないための智慧を今も大切に保存していた。
 
 現代の日本では、イマジナルな世界への入り口はほとんどふさがれてしまっている。子どもの絵本やファンタジーの中に細々とイマジナルな世界への通路が残されているが、それすら大抵の大人たちは気づくことすらない。これでは大人たちの中の子どものスピリットが窒息するのも無理はない。
 
 マリリンの教え
 メディスン・ウーマンの中でもとりわけ、マリリン・ヤングバードは、日常生活の中でイマジナルな世界と交流するための方法をたくさん教えてくれた。
それらは、とてもシンプルで子どもにでも理解できるようなものだった。
 
 その中で私が今でも身体技法の講座の中で実践しているのが、自分の身体の様々な部分に話しかけるというものである。それだけの事で大抵の人が見る間に元気になっていくのである。

 「足さん、いつもわたしの体を支えてくれてありがとう」「胃さん、いつも食べ物を受け止めてくれて身体じゅうに栄養を行き渡らせてくれてありがとう」「心臓さん、休みなく働いてわたしの命を育んでくれてありがとう」
 
 マリリンは流暢な英語でそんな風に僕たちをイマジナルな世界に誘ってくれた。こんなシンプルな子どもの遊戯のようなセレモニー。
これも彼女たちが先祖たちからか脈々と受け継いで来た智慧なのである。
こんなシンプルな遊戯でなぜ重篤な病人が回復することがあるのか、大人の知性には理解できない。
一方、大人の中の子どものスピリットはわくわくしてこの魔法の儀式に参加する。
  マリリンは時折、自分の中の子どもに話しかけることも薦めてくれた。「今日は何がしたい?今日は何が食べたい?」そんな風に自分の中の子どものスピリットに話かけるのだ。
 彼女の教えに素直に耳を傾けると、今の日本人の渇いた心に潤いをもたらしてくれるような智慧がたくさん隠されているのがわかる。
 
 魔法の楽園
 どうやら私は子どもの頃、魔法の楽園に住んでいたようである。
いつでもいともたやすくイマジナルな世界にトリップしていた。
イマジネーションの世界で遊ぶ悦びを知っていた。
彼女たちとの出会いが思い出させてくれたのは、そんな懐かしい記憶だった。

大人になった今、私は魔法の楽園への道順を見失ってしまった人の道案内役を引き受けることもしばしばある。

今の時代、確かに笑えないことが多すぎる。
笑えない現実から目をそらすことなく、具体的な行動を起こしながら、なおかつ自分の中の子どものスピリットを守り通すためには智慧が必要である。

笑えない夜には、大人の鎧を脱ぎ捨てて魔法の儀式を試みてみよう。
そのことが忘れていた大切な何かを思い起こすきっかけを与えてくれるかもしれない。

そして誰の助けも借りず自分の感性だけを頼りに、イマジナルな世界への入り口が見つけられるようになると、世界は絵の具を塗り替えたように鮮やかな色彩を取り戻すに違いない。
それは世界が恋人になったような感覚を与えてくれる。
子どものように無心に魔法のセレモニーに取り組むと、そんな聖なる瞬間が訪れるかもしれない。
                                                 2005.1.28
                                               16便につづく

第16便 下ネタのエクスタシー

直立歩行と下ネタ
 今日のお題は下ネタである。突然ではあるが・・・。
笑いに本気で取り組む以上、このテーマは避けては通れまい。
笑いのシルクロードのミッションのひとつに格調高い笑いの提供があるが、下ネタが格調高いかと問えば、大抵の人はノーと答えるであろう。
 だが、私は下ネタから派生する笑いが、必ずしも笑いとしてグレードが低いとは考えていない。それどころか下ネタというテーマには、人類の直立歩行以来の重要なテーマが隠されていると考えている。
 
 下ネタと直立歩行の関係。このテーマは心理学、人類学、生物学、哲学といった学問分野において未だ語られたことがない・・・ように思われる。

 人類の身体的特徴のひとつが、直立歩行であることは周知の事実である。直立歩行は、脳の発達を促し文明の飛躍的発展という目覚しい成果をもたらした。しかし、その一方人類は未だに直立歩行から生じた問題を解決しきれていないとも言われている。
 
 直立歩行によって私たちの身体にはある悲劇が起こったのだ。
 そう・・・。
 本来ひとつのものである私たちの身体が、上半身と下半身に分断されてしまったのである。

神聖なからだ
 私の身体技法の最初の師匠は、真の意味での健康を欲するならまず身体に対する差別観をなくせと事あるごとに語っていた。
 
 身体に対する差別観?
 
 まだ幼かった私にはその意味するところを正確に汲み取ることができなかった。この言葉の深みは大人にも理解するのが難しいかもしれない。

 首相、首脳部、頭取、ヘッド・・・。エラそうな人には、頭やら首やら脳やら上半身の部位の名前が冠される。セックスや排泄にたずさわる下半身の部位の名称がエラそうな人の呼び名に使われることはない。
 
 エライ人々はお上と呼ばれ一般大衆は下々の者と呼ばれる。
 同様に私たちは、下半身を下に見ている。
 下にあるから当然とのこととも言えるが・・・。

 ベルリンの壁はとうの昔に崩れ、ドイツはひとつになった。そしてインターネットの発達により、世界の境界は取り払われようとしている。そんな時代にも私たちは最も身近な自分たちの上半身と下半身の間に堅い垣根を築いている。
 
下ネタのエクスタシー
 的確な下ネタが発せられたとき人々の心とからだは、一瞬ではあるが上半身と下半身の分断から解放される。
 それは小さなエクスタシー。ホリスティック(全体性回復運動的)な悦びと言えようか。

 Holy(神聖な)とWhole(全体的な)は同じ語源から派生したと言われている。Health(健康)もHeal(癒す)もWhole(全体的な)という言葉とつながっている。
 
 詩人リルケも私たちの身体の生きられていない部分を生きることの重要さを見抜いていた。自らの身体の全体性を生きるために、私たちは身体に対する差別的な見方から解放される必要がある。
 身体に対する差別観から解放されると、肉体を持ち得たことへの純粋な悦びがわきあがる。生の悦びの横溢するエロス的肉体の復活である。
 
No Border ・・・あらゆるサベツから解放され、境界を越えてひとつになること。
ひとつになることへの憧憬・・・。人類はずっとひとつになることを夢見てきたのかもしれない。

からだ全体をひとつの聖なるものとして、受容し、愛し、感じきることへの切なる願い。
 
 性を聖なるものへと昇華する高い志と共に発せられる下ネタには、そんな人類の切なる願いが込められているのである。

あの・・・話半分に聞いてくださいね。
                                                  2005.2.1
                                                17便に続く
 

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