伊藤雄二郎のさわやか系心理学







4 達人の発想術

 キレル男たち

 少し前までは「切れる人」と言えば頭の回転の速い人、仕事の出来る人を意味していた。しかし、ある時期から「キレル人」というと何やらアブナイ印象がつきまとうようになってしまった。
 とはいえもともと知的なことを意味する「切れる」という表現の中にも、ある種の暴力性を暗示する意味合いも含まれていなくもなかった。あいつは「切れる」という言葉は手放しの賛辞というよりも、しばしば「あいつは冷徹だ」「血も涙もない」というニュアンスとワンセットで使われることも多かった。これも「切れる」という言葉がある種の暴力的なニュアンスを孕んでいたからに他ならない。

 もともと「切る」力は知的活動には不可欠の要素ではあるものの、つながりを断つという機能とワンセットで発動するものなのである。そのため冷徹で計算高い切れる人と言うと、自らの目論見が功を奏したときに一人「ニヤリ」と笑うようなイメージがぬぐえない。ぬくもりもやさしさもない笑い。それがかつての「切れる人」の笑いのイメージである。

 では頭の切れる人、つまり知的な人はみな「ニヤリ」と笑うのかというとそんなことはない。私の知っている笑いの達人たちには、知的なタイプも多いが彼らの笑いは、「ニヤリ」では終わらない。知的で切れ者でありながら、「ニヤリ」とは程遠いあたたかさに溢れる笑いを放てる達人たちがいるのだ。彼らの笑いの表現は、単に「切れる」だけの人とは次元の違う豊かさを孕んでいる。ではただの切れ者と切れるだけでなく、あたたかい笑いをにじませる達人たちとの違いはどこにあるのだろう?


 達人の一言

 ある時、笑いの達人の一人がこんなことを口にした。
「僕が新しい仕組みを作るときには、デジタルとアナログとの間を何度も往復しながら考えるんだ」
 これはうっかり、聞き逃してしまいかねない何気ないフレーズだが、僕にとっては千金の価値を持つ宝物に近かった。達人はこのさりげないフレーズの中に創造の秘密を明かしてくれているのである。切れ者でありながら、あたたかい笑いを放つ達人の秘密の一端が、この短いフレーズの中に凝縮されているとも言える。その秘密をもっと多くの人々と共有するために、少しこのフレーズの奥行きを解析してみたい。まずはこのフレーズに登場するデジタルとアナログという言葉の語源から。


 デジタルとアナログ

 そもそもデジタルという言葉の語源にあたるdigit(デジット)という言葉は“指の”という意味を持つ。この言葉からは「指差す」とか「指折り数える」という意味が展開する。「指差す」という働きは、曖昧なものを切り分けることで、明晰にするという方向で展開する。対象を切り分け個別化することで、はっきりさせるのがこの「指差す」機能の役割なのだ。さらにそれを「指折り数える」ことで数値化する方向に向かうと、今で言うデジタルという機能に発展していく。デジタルの機能が最もわかりやすく表されているのが、数字で時を表すデジタル時計である。

 一方、アナログは、「類似、似かより」という意味のアナロジー(analogy)いう言葉に起源をもつ。その起源は古くキリスト教神学においても、神は人間を神と似た姿をした者として創造したというアナロジー的思考が見出される。このことからもアナロジー的思考は人間が考えるということにおいて、かなり根源的な道筋だということが汲み取れる。
 アナロジー的思考とは、あるものと別のものとが似ていることを軸に展開する思考方法だが、異なるもの同士の類似性はロジックではなく、イメージによって発見される。このイメージによって何かを伝えるという働きは、時計の針の形で視覚的に時を告げるアナログ時計の機能によく表れている。
 
 デジタルは切り離し個別化することで意味内容を明確化したり数値化して伝えるコミュニケーション・モード。一方アナログは意味内容は曖昧なままでイメージを共有することで、伝える働きを担うコミュニケーション・モードである。
 象徴学的に言えば、デジタルはアダムとイブの物語のアダムによって表象される対象に名前を付けることで名指された対象を個別化する力に通じる。一方アナログは、名づけられたことでバラバラにされたものを結びなおすイブの力に通じると言える。


 アナロジー的思考の普遍性

  現代人にとってはデジタルは馴染み深いものとなりつつあるが、アナロジー的思考などと言われてもピンと来ないかもしれない。ところが、実は私たちは子どもの頃からそうとは知らずアナロジー的思考方法に慣れ親しんで来ているのである。例えば、子ども同士で、ジョークまじりのニックネームで呼び合ったりした経験は誰しもあるに違いない。

 「親分」「お姫様」「女王様」「陰の実力者」「羊の皮をかぶった狼」「口先男」・・・等々。こうした他愛もないニックネームは、案外その子の本質をうまく捉えていたりする。こうしたネーミングは論理的に考え抜かれた末に付けられたものではない。論理的思考とは何か別の思考モードによってひらめいたものである。それがアナロジー的思考なのだ。
 アナロジー的思考とは、別々のものを類似性によってつなぐ働きをもつ。類似性は、論理ではなくイメージによって発見される。「あの娘はお姫様みたいだ」という時、私たちは目の前にいる女の子と自分の内面に息づくお姫様のイメージとの類似性を発見しているのである。
 テクノロジーの発展によってこうした素朴なコミュニケーション・モードの意味合いが見えにくくなっているのが現代という時代なのである。アダムとイブのエネルギーの対立と融和という神話的なモチーフが、デジタルとアナログという形で最も先鋭的なテクノロジーとの関わりに表現されているところに現代という時代の奥行きが見て取れる。


 子どもの頃の思い出

 デジタルとアナログというテーマに関連して、僕は子どもの頃に経験した他愛も無い出来事を思い出した。たしか中学生くらいの頃、友達の家に遊びに行き、夕飯をご馳走になった時のこと。(・・・僕が子どもの頃は友達同士がお互いの家に泊りがけで遊びにいき、ご飯をご馳走になったり夜中まで話し込んだりということがよくあったものだが、今の子どもたちもそんな風にしているのだろうか?おそらく大抵の親は忙しくてなかなかそういう余裕はないのではなかろうか・・・。)

 その家のおかあさんが、僕の空になった茶碗をみて、「ご飯のおかわりは?」と尋ねてくれたとき僕は「あと350粒ください」と答えたのである。これは来るべきデジタルの時代を予見していたためではなく、「あと少しだけよそってください」とストレートに言うのがなんとなく恥ずかしかっただけなのだが、その家のお母さんも出来た人で、にっこり笑いながら「350粒ね。こんなものかしら?」とご飯をよそってくれた。そして次にその家に遊びにいったときには、「あらあの、350粒さんね」と暖かく迎えてくれたものである。

 
 アダムとイブの発想術

 このときは、本来アナログ的にイメージで伝えられるべきところを、あえてデジタル的に数値化して伝えたわけだが、アナログをデジタルに変換するというのは、例えばそういうことである。イメージを言葉や数字で表現してみる。それをまたイメージに変換してみる。それが達人の言う「デジタルとアナログを往復して考える」ということの具体的な実践方法である。

 ロジカルに発想するには、「切れる」だけで十分である。ただ単に「切れる人」というのは、アダムの力しか使っておらず、彼らにはロジカルに、あるいはクリティカルに思考することは出来てもクリエイティブに発想することは難しい。クリエイティブな発想は、切ったものをどう繋ぐかにかかっている。したがってクリエイティブな発想をする人というのは、ほぼ例外なくこのデジタルとアナログの間での往復ということを意識的、無意識的に実践している。彼らは、ロジックや数字や図やグラフを通して考えるかと思えば、イメージや比喩やシンボルを通しても思考するのである。

 数字、ロジック、図といったアダム的な要素とイメージ、比喩、シンボルといったイブ的な要素とをいかに関わらせるか・・・。そこに創造の秘密が隠されている。アナログとデジタルの間を往復することでそれらの要素をしかるべきポジションに配列していくこと。クリエイティブに考えるとは、例えばそういう作業のことを指すのである。
 ただ「切れる」だけの人と、「クリエイティブに考えられる人」との間にはそれだけの違いが横たわっている。「切れる」だけの人には何かが欠けていることを、人々はうすうす気がついてはいた。これからの時代は「切れる」だけでは十分ではないことが今以上に明らかになってくるはずである。


 アダムと日本的心性

 ロジカルに考えるだけでは、対象を理解したり整理したりという思考にとどまってしまう。クリエイティブに発想するためには、アダムの「切る力」のみならず、イブの「つなぐ」力も大切な要素となることがわかってきた。だが、今の日本人にとってまず求められるのが「つなぐ力」の前に「切る力」であることは言うまでもない。多くの日本人が「これではまずい」と思いながらなんとなくこれまでの流れを切れずにズルズル引き継いでしまっているのは、「和」を尊ぶ日本的心性に「切る」力が馴染まなかったためである。

 「和」を尊ぶ日本的な発想というのは、素晴らしいものがある。「和」はひとつながりの「輪」に通じる。しかしその「輪」もいつまでも繋がったままでは、やがて老朽化し、本来の張りを失ってくる。日本的なもたれあいの構図から連想されるのは、なんとなく手をつないで繋がっているうちに、張りを失ってしまった綱のイメージである。

 「絆」を象徴する綱でできた輪も、張りを失ってしまえばただの「ヒモ」。もたれあいの象徴と化してしまう。もたれあいの構図からは新しい力は生まれては来ない。かといって「切る」だけで終わるロジカル・シンキングだけでは物事が整理はされても、新たな発展はない。必要なのは、「切る」と「つなぐ」すなわちアダムとイブの協働作業により新しい何かを創造することである。したがって今の日本に必要なのは、切り離しては繋ぎ、繋いでは切り離すという運動性を孕んだ発想であり行動なのである。この運動が新たな何かを生み出す力へと繋がっていく。

 この「切る」と「つなぐ」を相互に繰り返す過程は「破壊」と「再生」のプロセスといえる。その過程で、輪をつなぐ絆は太く強く育てられていく。脳を使えば使うほどシナプス同士の結合が強靭なものに育つように、輪も「切る」と「結ぶ」を繰り返す過程で、鍛えられるのである。それを一人で独自に実践しているのが達人の発想術なのである。

 
アダムとイブの摩擦熱

 切り離してはつなぎ、つないでは切り離す。その往復を一定のスピードで繰り返すうちに、多様な要素がこれまでにない仕方で結びつく。このようにして達人たちがクリエイティブに発想しているときには独特の熱が発生して、周囲に影響を及ぼす。達人の頭の中で、アダムとイブがすさまじいスピードでせめぎあうことで発生する熱。これを私は「アダムとイブの摩擦熱」と名づけた。この熱が新しい何かを生み出すエネルギーの源泉となるのである。アダムとイブ。どちらか一方では、創造は出来ない。アダムとイブがせめぎあい摩擦熱が生じるときに創造が起きる。この摩擦熱には何かしら創造の秘密が隠されているようである。




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