シルクロード夜話
望月 澄江

わたしはサイト管理を担当している関係で、宅急便やさわやか系心理学の原稿をみなさまよりもひと足先に読ませてもらう。先日メールで送られてきた「詩的感受性と死」の原稿に目を通しながら、ふと二年前のことを思いだした。
わたしはここと仕事関係のサイト・ルテラムウのほかに、音楽と遊びと癒しをメインコンテンツにすえたカイロンの翼というサイトを運営しているんだけど、二年前にサイトを立ちあげようと思ったとき、自分がいちばん伝えたい思いをサイト名という形で表現できたらいいなと思った。で、思いついた名前がカイロンの翼だった。
カイロンというのはキロンとも呼ばれ、ギリシャ神話に出てくる賢者ケイローンのことだ。
ご存知の方も多いと思うんだけど、ケンタウロス族というのは上半身が人、下半身が馬の姿をしていて、乱暴で好色な性質をもっているらしい。そうしたケンタウロス族のなかにあって、狩りの名人だったケイローンは礼儀正しく智慧があって、音楽と医術にも秀でた才能を持っていたため、部族のなかでは一目も二目も置かれた存在だった。いわゆる文武両道というやつなのだろう。ところがあるとき、英雄ヘラクレスが誤って放った毒矢に当たって死んでしまう。大神ゼウスは彼の死を惜しみ、いて座の姿で星座に加えたという。
この神話はなかなか興味深い。
ケイローンというのは、どんなに重症の患者も癒す力をもつ医者でありながら、自分の傷は癒すことができない、いわゆる「傷ついたヒーラー」の象徴であるという解釈を読んだことがある。
でもね、わたし的にはその説には違和感を感じる。
リアルタイムで傷ついたままの状態なら、ひとを癒すことなんてできないんじゃないかな。もちろん傷ついた自分に対してYESと言えるなら別なのだが。その話はまた別の機会にゆずるとして、ケイローンの物語を自分流に解釈すると、「自我の死と再生」を象徴しているんじゃないかなと思っている。
毒矢を受けたケイローンは、最初不死身ゆえに死ぬこともできずに七転八倒の苦しみを味わう。
これはちょっと視点をズラすと、じつはわたしたちも日常生活でしばしば味わっているんだよね。変化を恐れて、現状に執着する気持ちがそれ。
たとえばとっくに終わってしまった恋愛にしがみついていたり、古い仕事のやり方にこだわって新しいことを覚えることに抵抗があったり。誰でも過去を振り返れば、ひとつぐらいは思いあたるんじゃないかなあ。
物語では苦しむケイローンに同情したプロメテウス(彼も不死身なのだ)が、彼の不死身を引き受けてくれる。それによって、ケイローンはやっと死ぬことができるわけ。
これは何を意味するかといえば、古い自我の死だ。
わたしたちの日常に置き換えれば、それまでの古いやり方を捨てて、新しい考え方を再構築してゆくプロセスそのものじゃないかな。産みの苦しみというけれど、変化・成長はいつだって苦しい。でも人間の心の成長は、この死と再生、あるいは破壊と創造の繰り返しなのだと思う。
そしてケイローンは天に昇って星座になる。
これは、それまでその人が生きてきた時間、言いかえると古い時間の流れの中でしがみついてきた古い自我を捨てて仕切りなおすことを意味する。この時点では、すでに古い自我にしがみつく必要がなくなっているんだよね。だって間違いなく新しい流れがそこまできているんだもの。
つまりこの場合の死は、重たいコートを脱ぎ捨てるように、よりナチュラルな自分として生きることを象徴しているんじゃないかな。なんせ肉体がないってことは、執着やら妙なプライドやらを脱ぎ捨てて、より本来の自分、より自然体の自分に近づけるってことだものね。
こんなふうに考えてゆくと、ケイローン(カイロン)というのは成長してゆく人間の象徴だなあと思うわけです。日常の中でのちいさな死は受け入れがたいかもしれないけど、慣れてくるといつしかそれが快感に変わる。
リルケや多くの詩人たちが表現しようとしているそれは、様々な形でわたしたちのそばに転がっている。だから「詩的感受性と死」の原稿を読んだとき、すぐにカイロンの翼の由来を思い出したんだろうな。
何気ない日常のなかで、それはかすかな扉を開けたまま、わたしたちが気づくのを待っているのかもしれない。
2005.1.30