伊藤雄二郎のさわやか系心理学
世界がもし100人の村だったら
「世界がもし100人の村だったら」と題された1枚の紙きれを手渡されたのは、4年ほど前のこと。この紙を渡してくれたのは現在、西荻窪で「ぼんしいく」というレストランを経営する女性だった。
その紙切れには次のようなことが書かれていた。
もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を100人の村に縮小するとどなるでしょう。その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます
52人が女性です
48人が男性です
70人が有色人種で
30人が白人
70人がキリスト教以外の人手
30人がキリスト教
89人が異性愛者で
11人が同性愛者
6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍
80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
(後にマガジンハウスから出版された本では14人となっています)
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人はいま、生まれようとしています
1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け
そしてたった1人だけがコンピューターを所有しています
もしこのように、縮小された全体図から私たちの世界を見るなら、相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火を見るよりあきらかです。
シミュレーションはまだまだ続くのだが、僕は講演会などで時折この紙切れに書かれた内容を紹介させてもらったりしている。
この紙に書かれているのは、全世界の人口を100人と仮定したうえでの、様々なシミュレーション。現在地球上で進行していることを大まかに把握するのに役立つ見取り図を提供してくれる。もともとはインターネットで流れていたものだそうだが、今では同タイトルの書籍も販売されているため、知っている人も多いと思う。
若干数字のうえで事実とくい違う点もあるという指摘もあるが、大まかなところでは、人類の現状をわかりやすく伝えてくれるシミュレーションであることは間違いない。このシミュレーションからは、様々な教訓が引き出せるが、今回僕が注目したいのは、全人口の7割が読み書きができないという点である。
読み書き能力の特殊性
私たち日本人は、つい読み書きの能力をあたりまえのことと考えがちだが、全人類的な視野から見ると読み書きはまだまだ特殊な能力なのである。そして、問題はこの特殊な能力を駆使し得る立場にいる人々が、未だにこの技術を十分に使いこなしていないということである。もし地球上の3割の人々がこの技術を適確に使いこなす術を身に付ければ、世界は確実に変わる。それが今回のテーマである。
新世紀の書き言葉
現在、文章表現に関しては、実に様々な文章技術の本などが出版されているが、ここではこれまでにない仕方で、文章を書く能力の可能性について捉えてみたい。そのために文章の形式を思い切ってざっくりと二種類に分けてとらえてみたい。ひとつは過去を記述したり、再構成したりする言葉。もうひとつは、未来を切り開き道筋をつけるための言葉である。
これからの時代に必要とされるのは、言うまでもなく後者の方。つまり未来を切り開き道筋をつける言葉の方である。だが、どうしたら未来を切り開く言葉を獲得できるのかという方法論は誰も教えてくれない。もちろん大学を含む学校でも教えてくれない。それどころか、学校教育において「未来を開く言葉の獲得」という発想すらないのが現状であろう。それこそ次の時代を担う子どもたちが明日を生きるために切実に必要としているものだというのに・・・。
とはいえ学校教育を批判するつもりはない。批判に時間を費やすよりも、未来を開く言葉を獲得するためのノウハウの確立のために知恵を働かせた方がはるかに生産的である。もう私たちには批判のために費やす時間など残されていないのだ。
少し前の時代のように、敷かれたレールに乗っていれば生きられるという時代はとっくに終わっている。だが、今生きている大人たちは、大抵は自分でレールを敷いた経験がないために子どもたちに、レールを敷くための方法論を伝えられずにいるのである。この問題についてはさすがに笑ってる場合ではない。この問題を笑えるのは、未来を開く言葉の獲得のための具体的な方法論を子どもたちに伝えきることができたと確信したときに違いない。というわけで、話はにわかに具体性を帯びる。
真の主体性と未来志向の書き言葉
結論から言えば、未来を開く言葉の獲得は、真の主体性の確立という問題とも関わってくる。ここでいう真の主体性とは、他人の言葉や古い常識、既存の枠組みにはとらわれない自らの実感に基づく考えや判断、あるいはその判断に基づいて行動する能力を指す。
現代のように情報が過剰に溢れる時代では、自らの実感に基づいて物事を判断するのは容易なことではない。誰もが他人の言葉や情報にひっぱられ、自分の実感から遠ざかりがちになってしまうのだ。パソコンの普及により、学問の世界でも、オリジナルな言葉を語るのが困難になっているようである。大学生の書く論文においても、他人の言葉をコピーして切り張りしたいわゆるコピペ論文が氾濫しているのが実状のようである。
コピー&ペーストの氾濫
こうしたコピペ論文を前に、パソコンの普及や学生のオリジナリティーの無さを嘆く声も聞かれるが、責任はパソコンやこうした論文を書く学生たちにだけあるわけでもない。そもそもガクモン的フィールドにおいては、過去の先例に基づき、過去に語られた言葉の上に重ねるようにして自らの言葉を紡ぎだしていくことが長きに渡り慣例となっていた。学問というものが過去の研究に基づいて発展していくものであることを考え合わせるとこれは当然と言える。
このため、これまで学問的フィールドにおいては、誰も未来志向の言葉を紡ぎだすためのノウハウの確立という問題を本気で検討しようとはしてこなかったのである。この意味で従来の学問、あるいは教育的方法論そのものが、こうした自らの実感とかけ離れたコピペ論文の量産の因子を孕んでいたと言える。
子どもたちに伝えるべきこと
学問的研究が過去の成果に基づいて為される以上、論文の書き手の視点のベクトルは当然過去に向かいがちである。近年では、研究成果というよりは、最新の情報をベースに論考を展開する試みも一般化しつつあるが、最新の情報といえども発信された時点で既に古いものである。情報は常に古いものであることを現代ほど鮮明に浮き彫りにした時代はかつてなかったかもしれない。もちろん過去の成果に基づいて展開する学術的方法論にはそれなりの意味はある。
だが、実際に子どもたちに文章表現を伝える現場にいて、彼らが直面するであろう未来をシミュレートしてみると、彼らのために大人たちが為すべきことは明らかである。教科書的な知識を注ぎ込むだけでは、激変する世界を生き抜くことのできる人間として充分な用意ができるはずもない。
子どもの側に立てば、未来を生き抜くための力をつける訓練を施すことが最優先事項であることは言うまでもない。このことは子どもにかぎらない。現代においては、まず大人が明日を生きるに足る知恵を育むことが急務である。だが、いかにして?
この問いは近々、(2005年4月30日に)開催される講演会のテーマとも重なるものである。このところの時代の流れの変化の兆しを受けて、少し急いでこの問題を語る必要を感じている今日この頃である。
未来を開く言葉を語りたければ、まず、現在の自分の実感からスタートする必要がある。実感の「実」は「み」とも読むがこの「み」は「身」に通じる。まずは、今の自分の実感からスタートすること。 それが第1歩である。
(パート2に続く)
2005.4.30