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さわやか系心理学






3 詩的感受性と死
    〜宅急便13便「エロスとタナトス」の補足として〜

宅急便を読んだ方から、詩的感受性と死の関係についてもう少し詳しく話してほしいというフィードバックをいただきましたので、特別便として書かせていただきます。

 ノーマン・O・ブラウンと言う人の『エロスとタナトス』という不朽の名著があるのですが、その本にはけっこうそのあたりの事が詳しく論じられていますね。ただ、私はその本の主張とはまた異なる意見を持っています。

古いアイデンティティーの死
 死については、何段階かに分けられるんのですが、まずは私たちにとって近づきやすい自己変容に伴う、古いアイデンティティーの死。つまり自分の自己イメージとの訣別ということですね。少し前に売れていた「キッパリ!」でしたっけ・・・。ああいう本が売れるのは自分を変えたいけどうまく変われないと感じている人が数多くいることを意味しているように思います。

変わりたいのに変われないというのは、古いアイデンティティーが変化に対し、怖れているからです。たとえ、現在の自分がどうしようもない人間でどうしようもない状態にあったとしても、変容のプロセスを通過し、新しいアイデンティティーに移項することは、古いアイデンティティーの「死」を意味するわけですから、これは怖い。しかし人は生きていく過程で何度かこういう古いアイデンティティーの「死」を迫られる体験に遭遇します。

就職や結婚のような場合でも古いアイデンティティーからの分離は生じます。結婚の場合、独身の自分というアイデンティティーを手放すわけですが、こういう場合は、古いアイデンティティーは速やかに「死」を迎えられます。なぜなら新しいアイデンティティーのイメージがしっかりと描けているからです。しかし、古いアイデンティティーの「死」を迫られる体験というのは、こんな風に穏やかにやってくるとはかぎりません。失恋、離婚、リストラなどは往々にして激しい葛藤をもたらす古いアイデンティティーの「死」です。

直面するのが困難なこうしたプロセスを速やかに通過するためには、社会や関係性によって与えられる、移ろいやすいアイデンティティーから自由に脱同一化できるような柔軟な感性が求められます。例えば現代人は、自分を年齢と同一視したりします。「私は○歳です。」と何の疑問もなく考えてしまうのです。しかしこうしたものもある意味人間の造ったもので社会によって与えられた、移ろいやすいアイデンティティーといえます。

では、こうした移ろいやすいアイデンティティーではなく、自分を何と同一視したらよいかと言うと、これが難しい。言葉でいうなら生命の根源とでも言えるかもしれませんが、それって何?と言われればそれまでです。しかし私たち人類の同胞には、この生命の根源をしつこく凝視し続けようとする人たちがいます。それが例えば詩人たちです。リルケのような詩人がその代表ですね。彼らがこの問題に関してヒントを与えてくれます。

宗教的感受性も生命の根源に関わるものではないかという意見もありますが、宗教的感受性というのは、時として「信じる」方に流れてしまう傾向があります。詩人というのは、自分に固有の感覚で感じ続けようとしなければ詩の生命線が断たれてしまうので、何かを「信じる」よりもより純粋に「感じる」ことで表現の生命線を保とうとします。どちらが優れているということはないのですが、「感じる」ことに力点を置くことから得られた洞察は、それだけダイレクトに人の心を打ちます。そしてこうしたダイレクトな感覚に基づく詩的洞察というのは、大文字の「死」に対しても有効に働くわけです。
 
肉体の詩と詩的感受性
肉体の死とは、基本構造は古いアイデンティティーの死と同型ですが、新しいアイデンティティーのイメージが描きづらいため、肉体を持った状態でのアイデンティティーの死とは次元が異なります。しかし中には臨死体験のような非日常的体験を通し、肉体の死に伴う意識の状態を体験した人もいます。そういう意識状態というのは、心理学的には変性意識状態と呼ばれますが中には臨死において、純粋で曇りのない変性意識を体験する人がいます。

例えば今、私がやっている身体技法の講座に出席しているある女性は、事故で突然、生死の境目に立たされたことがあります。彼女の場合、死に接近しているにも関わらず、冴え渡った意識が残っていて、救急処置室に医師が入ってきた際、気配だけでその人の「格」というか、医師としての技術レベルから存在のレベルというか魂のレベルまでが感じ取れてしまい、「この人では、私を助けられない」とか「この人なら大丈夫」というのが全部わかってしまったといいます。

こういう意識状態にある人は、日常的な時間の流れが完全に停止した状態にいるわけです。そういう状態では視覚的イメージに頼らない直観が明敏に働きます。視覚的にイメージする以前に周囲の状況が感覚的にぱっとわかる。それは日常的な意識に比べると、生命の根源により近い意識の次元です。

優れた詩人というのは肉体を持ったままでこうした意識の深層に下りていき、その次元の意識状態でキャッチしたものをメッセージとして持ち帰ってくる。こうした意識状態においては、日常的な意識にいる状態と時間感覚がまるで異なっています。したがって彼らの直観は、通常の時間軸に沿った形では表現しづらいわけです。

そのため、詩の言語というのは、時として通常の文法構造を逸脱せざるを得ないのですね。異なった次元の時間の中での体験や洞察を、日常的時間の流れの中に位置付けようとすると、そういう構造にならざるを得ない場合があるわけで、優れた詩人の詩の解読が日常的意識のままでは困難なのはそのためです。優れた詩のエッセンスを汲み取るにはグラスワイン一杯分くらい意識を解きほぐすことが求められます。

これらは次元の異なる時間意識の痕跡として読まれるべきで、その痕跡の意味を汲み取るためには、読み手の側で自らの時間意識を変容させる必要があります。これは古いアイデンティティーを解体することとも関わります。そのため、優れた詩の読解を通し詩的感受性を養うことは、柔軟なアイデンティティーを育む良い訓練になるのです。このことについてもう少し詳しくお話しましょう。

詩、笑い、時間の質
 古いアイデンティティーは古い時間の流れに守られています。古い時間の流れは古く堅固な言葉のコード(枠組み)と密接に結びついています。古いコードを解体し、新しいコードを再生させる言葉があるとすれば、それは時間的枠組みを乗り越える力を持つ言葉、すなわち詩の言葉ということになります。詩の読み手としての私たちは、そうした言葉のヴェールを通し、現在の自分の立ち位置の向こう側にある世界を透かし観るわけです。ということは、詩を読む側にもやはり詩的感受性は必要なわけですね。詩的感受性のエッセンスは、流れている時間の質を変える力と言ってもいいかもしれません。そのため詩的感受性は、私たちが「死」と「再生」のプロセスを通過する際に大いに役立つわけです。
 
「詩」と「笑い」に共通して言えることは、どちらにも日常的で均質に流れている時間の質を変える働きが備わっていることです。時間の質という問題はあまり語られていませんが、人間の意識の秘密を探るうえでもはずせない要素ですね。笑いという感情と詩的感受性の関わりを時間の質というラインから考えていくと、私たちは人間の意識について思いもよらぬ洞察に辿り着くことになると思います。

意識の深層においてはどうしたわけか、生と死は結びついています。しかし日常的時間軸に沿って考えてもこれは矛盾としてしか受け取れない。しかし異なった時間意識の中ではこのことが明晰に理解できる。リルケあたりは詩的直観力を携えて異なった次元の時間に参入していくことで、このことを悟ったのだと思います。

臨死体験といえば、笑いの達人Y氏も何度か臨死状態をくぐり抜けてきています。こういう人の笑い声には独特の浸透力があります。それは人より怖れるものが少ないからじゃないかと思います。「怖れ」という文字の右側は「布」という字ですね。左側のりっしんべんは「心」という字から来ている。要するに怖れというのは、心に布がかかった状態なわけですね。臨死体験をした人というのは、この心にかかった布が取り払われる体験を一度はしているわけですから、彼らの笑いの質に変化が生じ、笑いに浸透力が出てくることもありえるのだと思います。
(だからといって「そうか臨死体験か、よっしゃーオレも・・・」などと考え早まったことはなさらないように。臨死体験をしなくてもそれと相通じる意識体験は可能です。それについてはまた改めて書こうかと思っています。)

現代社会における「死」と「再生」のプロセス
 80年代のビートたけしの提供した笑いというのは、欺瞞を暴き、真正な自分に立ち返るというテーマを突きつけるものだったのですが、これを極限まで推し進めると古いアイデンティティーの死というテーマが浮上してきます。

そして2005年現在の日本は、政治、経済、文化、あらゆる局面のあらゆるレベルで多くの欺瞞が暴かれ破壊が進み、この「死」と「再生」のプロセスがすさまじい勢いで進行している途上にあります。多くの人が禁断のゲートの前に佇み、古いアイデンティティーの「死」と向き合っています。彼らの心の奥底に潜む問いのエッセンスは大抵が「自分に正直になっていい?」です。我々の身体意識はその深層において、正直になることがどういうことかを知っているのですね。しかし、日常的な意識のレベルでは、なかなかその次元まで降りていけない。そういう時、助けになるのが詩的感受性と笑いなのです。

 笑いという文化現象の深層を辿っていくと、本当に笑ってる場合じゃないようなテーマが浮上してきます。私たちがそのテーマを乗り越えた時に辿り着く笑いは、至福の笑いというよりも微笑みのような感覚に近いかもしれません。
                                                 2005.1.20  

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