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ただいま配達中だよ〜♪



 笑いの宅急便



  3 笑いの臨界点

腹の底から笑えてますか?
心理学の視点から笑いを撃つ

笑いは国境を越えるよ〜♪






笑いの宅急便95便 醒めた詩人

醒めた詩人

論理とは何か?

その本質を追求し続けるのは、重すぎる課題だった。

世界は論理で成り立っているのか?

詩で成り立っているのか?

それが問題だった。

世界は詩で出来ていると

誰かが告げてくれたなら

それだけで楽になれたはずだった。

 

孤独だった。

だが笑う時間はあった。

 

論理を追求し続け

袋小路に追い込まれたあげくに

試みた

命がけの飛翔

その極みにのみ

詩は姿を現す?

そんなはずはないと教えてくれる

人たちに囲まれていたから

 

誰もが詩人だった。

眠れる詩人だった。

 

論理は人を醒めさせる

詩は人を酔わせ、同時に醒めさせる

 

論理を追求し続けたあげくに

詩的リアリティーに目覚めた詩人たちが教えてくれた

世界は詩で出来ていると

 

世界はまぎれもなく詩で出来ている・・・と

 

               (2008、6,20)

 

 



笑いの宅急便94便 ヒーリング・センテンスとは何か? その12

孤独を癒す言葉の贈り物

孤独が癒されるとき

自分のために生み出されたヒーリング・センテンスを受け取ったとき、

長い間感じていた孤独感が癒されたという人がいる。

それは別に孤独を癒すというニーズに合わせたものではなかったが、

たしかにそ
ういうこともあるかもしれない。

センテンスは比喩的に言うなら

受け手の心の襞に沿うように

丁寧に作り込まれたキーフレーズの集まりだからである。

鍵と鍵穴がぴったりと合うように、

一人の人間の感覚の襞に寄り添う言葉。

それがヒーリング・センテンスである。

 

目には見えない

自らの感覚の形を映し出す

言葉の織物は

人と言葉、

人と人の出会いの妙を

伝えてくれる。

 

それは時として想像以上の効果をもたらすが

その作成のプロセスには

何ら神秘めいたものは介在しない。

 

もしも何らかの神秘性が介在するとしたら

それは言葉という現象そのものに付随するものである。

そもそも人間が言葉を操り

他者と交流する過程そのものが

実は神秘的なものである。

 

子供の言葉とのつきあいかた

例えばみなさんは子供の書く

文章にどの程度接したことがおありだろうか。

文章というものは

不思議なもので

どんなにつたない文章でも

他の子にはないその子なりの筋のようなものが

滲みでてしまうものなのである。

内気で自分のことをうまく表現できないような

子供でも、その子の書いた文章を読めば

その子が何を考え、何を感じているのか

ちゃんと理解できる・・・いや・・・感じとれる。

その子供の家庭や学校での様子や

その日の体調までが感じ取れることもある。

 

子供の文章を添削するうえで

留意すべき点は

枝葉の部分は遠慮なく

手を入れ、整えても

その子本来の筋は残しておくこと。

そうするとその子なりの軸を宿した文章が

しっかり成長していく。

子供の文章の成長は

彼らの内面の成長にダイレクトに結びつく。

 

私は植木屋さんという

職業について、

詳しく知っているわけではないが、

木を育てる際にも

おそらく似たような感性が働いているのではなかろうか。

 

余分な枝葉は取り払っても

根は傷つけないように注意する。

それさえ守っていれば

相手は自然に成長していく。

文章という媒介を通すと

子供との間でそうした関係を

作り出すことができる。

 

作り手と受け手の稀有な関係性

ヒーリング・センテンスの作成の過程もこれとよく似ている。

受け手のコアに響く言葉だけを残し、

枝葉の部分は、どんどんそぎ落としていく。

その過程で、センテンスの作り手と受け手は

無数のことを考え想像し感じ取る。

これは書き言葉を媒介にすることで初めて

成立し得る関係性である。

 

書き言葉の可能性

書き言葉の可能性について

人類がまだ気づいていないことはたくさんある。

心のどこかでそのことを理解していた人たちは、

その洞察を「詩」という形式で遺していった。

 

そして一方では

無意識の科学の先駆者とも言える

精神分析学も

詩人たちと同じ領域を探求しようとした。

精神分析学の創始者

フロイト自身も、

詩人たちが自らの仕事の先駆者的な

存在であることを認めていた。

 

ヒーリング・センテンスは、

無意識の科学の先駆者たる精神分析学が探索した

領域を探検するうちに

いつのまにか詩人たちの住む領域に

足を踏み入れてしまった結果生まれたものとも言える。

 

意識の科学の行方

今、意識に関する科学はどうなっただろう?

クリティカル・シンキング、ストーリー理論、イメージ誘導・・・。

深層心理学的研究から派生した学問的成果は

今やCMや、マーケティングや交渉術のために転用され、

お金儲けの道具として利用されている。

学問的成果がビジネスフィールドで利用されることは

資本主義社会においては、いたしかたのいないことである。

いやむしろ歓迎すべき点も多い。

認知心理学はコンピューターの発達に貢献したし、

新しい教育方法の扉を開く際にも大いに貢献してくれるはずである。

この頃では教育もひとつのサービス産業として捉えるという

見方が一般化しつつある。

資本主義社会において

お金儲けの価値を否定することはできない。

 

だが・・・。

本来、学問とはより崇高な目的のために仕えるべきものでは

なかったのだろうか?(ここは笑うところではありませんが、

笑いたい方はここでどうぞ。ここを逃すともう笑うところはありません)

 

そしてどこにでもいた、無名の詩人たちは

どこに行ったのだろう?

 

かつて安酒場には、

詩人たちがゴロゴロしていた。

彼らは決して詩を書くことなどなかったが、

詩心は持っていた。

そんな飲んだくれの連中と

呑む酒はおいしかったし、

彼らと

お酒を飲めさえすれば、

ことさらに人生の意味など

問い直す必要もなかった。

私もわざわざ

ヒーリング・センテンスなど

創る必要もなかった。

 

だが、今・・・。

飲んだくれの呟きでさえ

言葉から数字に変わろうとしている。

ゆとりを失った乾いた精神は

生の意味を見失おうとしている。

 

リルケの口にした

「生と死をつなぐことこそが詩人の役割である」

という言葉に耳を傾ける酔っぱらいが安酒場に

どのくらいいるのだろう?

詩が死の世界への扉であることを

確認するために酒を飲んでいる

酔っぱらいの数は?

 

私自身ここのところ

お酒を飲む機会がめっきり減ってきた。

その代わり

目の前の相手の心の襞を感じ取り

その襞に寄り添うような言葉を

紡ぎ出す機会が増えた。

そしてほんのひとときでも

孤独が幻想に過ぎないことを確認しあう。

アルコールと違い、

目の前の相手と共に燃やした命はセンテンスという

形で結晶化する。

生命を燃やすための燃料が

アルコールから言葉に変わっただけかもしれないが、

結晶化したセンテンスは、目の前の相手以外の

誰かの役に立つこともあるかもしれない。

アルコールだけでは、癒しきれない

渇きや孤独を抱えた人々が増えてきた時代でなければ

ただの酔っぱらいでいられたかもしれないのに。

もうそんな風に嘆いている場合でもないのかもしれない。

おそらく今はそんな時代なのだ。

 

 

                      (2007,9,28)

 

P.S.先日ある大学生と話したとき

「心の襞」という表現を知らなかったことに

ちょっぴり衝撃を受けた。

美しい日本語は何とかして残していかないと。


笑いの宅急便 93便 ヒーリング・センテンスとは何か?その11
鏡としての笑い

 

笑いは固定した真実を伝える教義的な言説からはもっとも遠いところにある。
それは老荘思想の伝える「タオ」にも似て玄妙で捉えがたい。

 

変化する笑いのツボ

人々の笑いのツボは時代と共に変化する。半年前には笑えたネタが今は笑えなかったりする。このことは受け取り手の感性の変化というより、時代背景の影響が大きいように思える。

新しい孤独や新しい哀しみを追求しているという作家や脚本家の話はあまり耳にしない。時代が変わっても人々が孤独や悲しみを感じるシチュエーションの大枠は似通っているからである。
怒りや、悲しみ、孤独あるいは愛や喜びという感情は、文化的、時代的背景を越えて普遍性を獲得しやすい。それゆえに文学や映画というジャンルにおける古典的な名作は、今でも現代人の心を深くゆり動かす力を保ち得る。
だが笑いとなるとそうはいかない。
背景に対する理解がなければ古典落語で爆笑するのは難しい。

笑いは常に新しいものの側につく。
笑いのプロが、新しい笑いのスタイルの追究を迫られるのはそのためである。

新しさは、笑いという感情を呼び起こす重要な触媒のひとつである。

日本的笑いという現象

笑いを生み出す触媒は、時代や文化的背景によって微妙に形を変える。そのため笑いを発生させる触媒のエッセンスは、時代や場を共有していない人々には伝わらないことが多い。

ビートたけしが映画監督として国際的な名声を得た際の、海外のジャーナリストのとまどいぎみのコメントを思い出す。

「この人物は、日本という国において微妙な地位にいるようである。彼が何か言うと、観衆は肩をふるわせて笑う」

確かに東京の下町の住人の目線をベースに練り上げられたネタが、欧米のジャーナリストの感性に訴えるとは思われない。笑いは時代精神を映し出す鏡であるだけでなく文化を映し出す鏡でもある。ビートたけしのギャグにとまどう、海外のジャーナリストの姿は、異文化に属する彼らの目には見えない日本文化の醸し出す空気の輪郭を描き出す。

笑いという感情はもっとも微妙な道筋を通る
笑いを発生させる特定の触媒に反応するためには、その触媒に反応する空気をつかみ取る感性が求められる。

現代という時代は笑いの通る道も細分化され、細かすぎて伝わらない物まねまでもがひとつの笑いのジャンルとして成立する時代である。それは一面では笑いの線が細くなっているということでもある。

私が幼い頃には、腹の底から笑う人はそこにもここにもいた。
腹の底からこみ上げてくる、骨太で
余韻を残す笑い。
それは昭和の笑いとでも言えるだろうか。

現代ではそんな風に笑う人はあまりいない。
今の主流の笑いは、スピーディーで表層的。
時にシニカルで瞬時にして消費されてしまう
ある種ポストモダン的な笑いとでも言えるだろうか。

腹の底からこみあげてくる笑いにはある種の突き抜けた感覚が伴う。
その感覚はたとえ一瞬でも孤独や哀しみや怨嗟やらジェラシーやらといった諸々の複雑な感情から人々を解き放つ。

聞き手の意識を表面的に操作することで発生する笑いとは根本的に異なる突き抜けた感覚。
それは固く閉ざされた現代人の感性が解放される時空に降り立つ。

感性の解放・・・。
言葉にするのは、たやすいが
そのための具体的で有効な技法となると教育的ノウハウや心理学的手法の中にも容易に見つけることは出来ない。

だが競争社会の中で閉ざすことを要求されている感覚的領域は、
状況が整えば
黙っていても自然に開くというほど簡単なものではない。
感覚が閉ざされてくると人は自分が苦しんでいることにすら気づかなくなる。

今、生きるため必要なのはシンプルに感じること。

P.S.
久々にCDを購入。
クレイジーケンバンドのSOUL電波。
お、やってるな、ケンあにぃ。

 

            (2007/09/06)

 

 

 


笑いの宅急便 92便 ヒーリング・センテンスとは何か その10

空気読むならとことん読もう
どうせ空気を読むのなら、
途中で立ち止まらず突き抜けてしまえばいい

今日、ロジックの重要性が叫ばれ

資本の論理にしたがって、M&Aが行われ

ビジネスの世界も刻々と変化していっている。

教育の世界にまで資本の論理の波は押し寄せ

今や塾業界でもM&Aが行われる時代である。

さらには公教育に従事する教員から、大学の教員に至るまで

サービス業という意識の低い者は淘汰される時代になりつつある。

 

資本の論理にしたがえば、それも合意せざるを得ない。

だが、資本の論理のみを拠り所にM&Aを仕掛けてくる

資本の力に対して「少しは空気読めよ」

突っ込みを入れたい人も

案外多いのではないだろうか。

どれだけロジックの重要性が叫ばれても

目に見えない人々の心情が醸し出す

空気を大切にするという日本人の気質は

そう容易には変わらない。

 

ならば中途半端にロジックにしたがい、

中途半端に空気を読んで立ち止まるのではなく

「空気を読む」という方向をとことん突き進んで

突き抜けてしまえばいい。

ロジックなどそれからでも相手にできる。

ヒーリング・センテンスというのは、とことん空気を読みイマジネーションを

膨らませまくる
という方向を突き進んだうえで、なんとかロジックと折り合

いをつける
途上で誕生した産物である。

知人から

ヒーリング・センテンスという言葉を商標登録するようにと

アドバイスされたが、この際ネーミングはどうでもいいのである。

大事なのは、本当に受け手の意識に響きをかけられるだけの

センテンスを創る過程である。

 

ヒーリング・センテンスと呼ぼうが

コーチング・センテンスと呼ぼうが

ティーチング・センテンスと呼ぼうが、

あるいは単に詩と呼ぼうが、

聞き手の意識に「響き」をかけられるだけの

言葉を紡ぎ出すには、

まず「空気を読む」能力にある程度磨きをかける必要がある。

その過程を通過することなく

ヒーリング・センテンスというネーミングだけを

コピーしてセンテンスを作成したところで

単なる空疎な言葉の羅列になってしまう。

 

この領域は、簡単に理論化できず

容易にマニュアル化もできず、

それゆれにビジネス化もしづらい領域なのである。

古今東西を問わず詩人というと美しくも貧乏な印象が

つきまとうのも
そのことと無関係ではない。

ヒーリング・センテンスの役割りのひとつは

この「貧乏な詩人」という元型的イメージを

反転させることにあるのかもしれない。

リッチな人にも詩的精神は宿り得る。

リッチな詩人が生きられる世界は

おそらく今よりは美しい。

詩人の魂を宿した資本の論理が成立する社会。

どんなに突飛な想像も描くのは自由である。

「空気」を感じるセンサー

私の最初の身体技法の師匠から

聞いたエピソードで印象に残っているものがある。

彼は駅に降りてみたたけでその街が

発展するかどうかはすぐにわかるという。

これから発展する街は街全体の

気が燃えるようだというのである。

 

このエピソードを耳にした頃、

私はまだほんの子供だったが

明治生まれの老人が何気なく

語ってくれたこの話しには妙なリアリティーが感じられた。

 

もともと地理上の「土地」にはそれぞれ特有の性質が備わっている。

この特有の性質とそこに集う人々の相互作用によって独特の性質と磁力

帯びた「場」が生み出される。

彼はその場が放つ「気」を感じ取るセンサーが人並みはずれて発達して

いたようである。

空気を読む能力を研ぎ澄ましていくことで、

様々な分野で活用可能な能力を育てることができることを、

この老人は教えてくれた。

彼は現代の日本人にはなかなか見つからない

ある種の「突き抜けた」感じの漂う人物であった。

空気を読む方向をとことん突き進み、突き抜けたあげく、

自分が空気を作り出すに至った

人間のみに備わる風格が漂っていた。

 

残念なことに現代の日本人には、こうした先人が遺してくれた

知恵が十分に伝わってはいないようである。

現代の日本人は、どちらかというと空気を読む能力を

上手に活用しているというよりも、

もてあましているように見えることもある。

せっかくの空気を読む能力が

その場を表面的にやり過ごすことに費やされ

かえってリアリティーを回避する方向で働いているようなのだ。

空気を読む能力をリアリティーを回避する方向で活用するか

リアリティーに触れる方向で活用するかの違いは大きい。

さらに空気を読む能力をリアリティーを表現する

方向で活用することが出来るようになれば、

私たちは、想像している以上に大きなものを手に入れることが

できるようになるはずである。

 

 

                                (2007年9月4日)

 


笑いの宅急便 91便 ヒーリング・センテンスとは何か?その9

空気を読み過ぎる若者たち
リアクションの取り合いとしての笑い芸

知り合いのお笑い芸人の卵から
聞いた話だが、お笑いの基本は
リアクションの取り合いだという。
いかにタイムリーに
その場にふさわしいリアクションが取れるか?
あるいは相手がリアクションの取りやすいアクションを起こせるかが
お笑い芸人としての重要な素養となる。
その意味でお笑いの世界は
コンマ何秒差が笑えるか笑えないかの
分かれ目となるシビアな世界である

その一方、お笑いというジャンルには
リアクションの取りようがない芸の系譜も
存在する。

あるタレントが小島よしおの芸を
見せられたあとコメントを求められ
「何て言えばいいんですか?」
と絶句していたが、
これは小島よしおの芸に対する自然なリアクションである。

リアクションの取りようがないのである。

敢えてリアクションの取りようのない状況を生み出す芸というのも
笑いの心理学を考えるうえでは重要なテーマとなる。

空気を読み過ぎる若者たち

「昨今の若者たちは、本来なら瞬間的に無思考で
とるべき「リアクション」を、空気を読みながら計算して取ることを
時代精神に要請されている!!」

これは、サイコシンセシスの講座に参加してくれている
プロコーチのグループのメンバーの

田村洋一氏の言葉である。
(我々は彼をダンナと呼びます)
この「空気を読む」という作法は日本文化に
特有なもののようである。

私がアメリカで心理学を学んだときには、
いちいち言葉に出さなくても
分かりそうな
自明の前提をいちいち
言語化することに違和感を感じたこともある。

だが多様な民族がひしめきあう国家においては
お互いが無言のうちに共有し得る自明の前提というのは
きわめて成立しづらいのである。

したがって国際基準に照らし合わせてみると
日本人にとっての「自明の前提」あるいは、
「暗黙の了解」というのは、きわめてローカルなものであるとも言える。
それに比べなんでもひ
とつひとつ筋道立てて説明を試みる文化の方が普遍性を持ちやすい。

「暗黙の了解」の部分をお互いに空気を読むことで理解し合おうとする文化は当の日本人が気づいている以上に繊細で洗練された文化的土壌を育んだが、今のままでは日本国内でしか通用しない。

だがこの文化を単に日本国内でのみ通用するローカルなものとして切り捨ててしまうのはあまりにももったいない。
私個人は日本特有の「空気を読む」文化も、うまく育てればロジックに基づくコミュニケーション以上の普遍性を持ちうると考えている。

かつて私の好きなミュージシャンの桑田佳祐が
「言外の意味に対する感応力というかテレパシーみたいなものは、
絶対俺たち(日本人)の方が上」という意味のことを言っていたが
日本人独特の「空気を読む文化」は、お笑い、音楽、ビジネス、政治、あらゆるシーンで作用しているようである。

もちろん「空気を読む文化」にはいい面ばかりがあるわけではない。
この文化がいい方向に作用すると組織やチームが、それぞれ自分の役割りを無言のうちに理解してスムーズに動く方向で展開する。

ところがマイナスの方向に作用すると、それ自体がプレッシャーになってパターン化されたコミュニケーションしか出来なくなるという副産物を生んでしまう。あるいは特定の場における暗黙のルールを察知できない者が排除されたり教育現場でのイジメにつながったりということも起こりうる。

そんな中、日本は国際化の必要性を感じ、
なんとか国際社会で通用するロジックを身につけようとしているが、
それもまだ発展途上。

「空気を読む」にも「論理的に話す」にも
どちらにも徹しきれていない今の日本の状況の中
そのどちらもすんなり使い分け出来ているような人は
まだまだほんの一握りのように思える。

今の時代は、空気を読む文化が洗練化され
抑圧装置として機能する一方で
筋道を立てて考え意見を述べるためのたロジックの必要性についても
多くの人がわずらわしさを感じ時には混乱を抱えるという
過渡的で板挟み的な状況にあると言える。

そのような状況で「空気を読む文化」から発生する無言の圧力も
論理的な説明を求められることからくるわずらわしさも
そのどちらも破壊するごとく「そんなの関係ねー」と
叫びたい人が現れるのも無理からぬ話しである。

こういう状況における
「そんなの関係ねー」の背景に隠された思いとしては、
「いちいち空気読んでリアクション取っていられるか」
「いちいち空気読んでリアクション取らなくてもいいんだって」
「空気を読まない奴にいちいち細かいこと説明していられるか」

そのいずれもあてはまりそうである。

とはいうものの
生きづらい板挟み的状況に対し

「そんなの関係ねえ〜」
とリアクションすることでお金が取れるのは
お笑い芸人以外の人には真似できない。

大方の人には、
板挟み的な状況を乗り越えるためには
論理を極めるか
あるいは空気を読む方向で
突き進んで突き抜けるのが
手っ取り早い道筋である。
ではいかにして?
それが問題である。

 

 

                               (2007年8月31日)

 

 


笑いの宅急便90便 ヒーリング・センテンスとは何か? その8

心理学的手法としてのお笑い芸・・・パート2

笑いを愛した男

笑いによって発生する

心のやわらかさ、軽やかさは

アサジョーリが愛したもののひとつである。

笑うことで人は余計な重荷を

下ろし精神は柔軟性を回復する。

 

優れたユーモアの持ち主は

優れたヒーラー(癒し手)である。

 

質の高いお笑い芸は

観客の気持ちをときほぐし、

軽やかにする。

お笑い芸というのは、

特定のアクションを取ることで

観客の脳に化学反応を引き起こす

一種の心理学的手法といえる。

したがって一流のお笑い芸人の条件のひとつとして、

人間の心理について何事かを

つかんでおくことが挙げられる。

 

心理学的手法としてのお笑い芸

ビートたけしが、

映像の方面に興味のベクトルを向けた理由を説明する際、

「オレたち芸人は、しゃべって、しゃべって、

客の頭の中に

絵を描いているんだ」

と語っていたことがある。

たけしさん本人は、自分が心理学的手法に

ついて語っていたという自覚はないと思うが、

五感を刺激する

イメージを喚起しやすい言葉を

駆使するテクニックは

サイコシンセシスのイメージ誘導の基本でもある。

 

お笑い芸の世界では

発想の惰性化、固定化は命取りになるが

サイコシンセシスの実践者が

もっとも警戒するのも発想の固定化である。

 

こうしてみるとサイコシンセシスの体系は

深層心理学よりも

はるかに伝統のあるお笑い芸の系譜に

位置づけられるようにも

思えてしまうが

両者には決定的な違いがある。

 

お笑いの技術と実践が

笑いを取る(瞬間的に聞き手の心を

重荷から解き放つ)ことを目指すのに対し

サイコシンセシスのような心理学的手法の実践者は、

より中、長期的な視点から笑いを考える。

すなわち持続性のある気持ちの軽さ、

やわらかさを志向する。

それが両者の本質的な違いである。

 

伝統的なお笑いの咲かせる花の命は

一瞬である。

その一瞬に賭ける心意気に

笑いというジャンルで

生きる人々の潔さが滲むが

そこまで潔く生きられるのは

一握りのエリートだけではなかろうか?

たけしさんのように

死を凝視することで

生を浮き立たせる生き方と連動した芸風。

一時期の松ちゃんのように

狂気と紙一重のところで

バランスを取りながら

練り上げたネタで笑いを取る芸風。

彼らの生み出した芸風は多くの人の心に

笑いの花を咲かせたが、誰もが彼らのように

生きられるわけではない。

 

笑いという花

アサジョーリの遺した心理学体系は語る。

花の命は短いからこそ美しい。

だが、花が散った後も

木も、枝も、葉も生き続ける。

人は花の美しさだけを見て

生き続けることは出来ない。

花が咲いている時は

花の美しさを楽しめばいい。

だが、花が散った後の

木の美しさに目を向けることがなければ、

人は美を部分的にしか理解できない。

 

笑いという瞬間に咲く花の美しさも

目には見えない根の力に支えられて初めて

誕生し得る。

 

それがお笑いというジャンルへの

サイコシンセシス的理解である。

 

                        (2007年8月20日)

 

 




笑いの宅急便89便 ヒーリング・センテンスとは何か?その7
心理学的手法としてのお笑い芸

小島よしおの芸風

先日私は共に心理学を研究している

プロコーチのグループのメンバーの

メーリングリストに、

小島よしおの動画を送付した。

海パン姿で「オッパッピー」とやるアレである。

きっとみんなまた私の気まぐれな

悪ふざけだと思っているに違いない。

たしかにちょっとした悪ふざけなのだが

それだけではない。

小島よしおの姿に「何か」

を感じたのもたしかである。

 

基本的にお笑い芸というのは、

単なる悪ふざけでは絶対に成立しない。

悪ふざけのように見える芸でも

思うように笑いの取れない芸人が

なんとか笑いを取るための苦肉の策として

生み出した芸風なのである。

小島よしおについて言えば

初期の山本太郎に近い芸風だが

山本太郎が半ば本能で

「メロリンキュー」とやっていたのに対し

小島よしおはそれなりに苦労して今の芸風を

生み出したのが感じられる。

ここしばらくは

余計なことは

考えずに彼の放つ尋常ならざるパワーを

楽しみたいところだが、

どうしても考えてしまうことがある。


約束事をぶっ飛ばせ


タモリ、ビートたけし、松ちゃん、太田光・・・。

彼らはみな知的である。

さらにかつてのふかわりょうに始まり、

今のだいたひかるに至る

いわゆるあるあるネタを

持ち芸にする芸人もかなり

観察力が鋭く知的である。

あるあるネタとは、

日常生活で誰もが体験するような

ありきたりのトピックを題材に

ネタを練り込んで

聞き手の心理の盲点を突くように

笑いを取るスタイルだが、

これは発信する側にも受け取る側にも

それなりの感度の高さや

知的要素が要求される芸風である。

こうした芸風が成立するということは

お笑いというジャンルそのものが洗練されてきている

ということである。

あるジャンルが洗練されてくるということは

それだけ目には見えない

細やかな約束事が増えてくるという

ことでもある。

お笑いの世界のみならず

様々なジャンルで細かい約束事が増えてきているのが

今の時代である。

あれを言ってはいけない。

これを言ってはマズイ。

特定の場に流れる空気を読めない

人間は切り捨てられる。

そうした状況に息苦しさを感じている

人たちにとって、

小島よしおの

「そんなの関係ねー」

はなんとも痛快に響くに違いない。

「そんなの関係ねー」

そう大声で叫びたい人が増えてきた時代に

小島よしおの芸風は受け入れられたのである。

知的な芸風が主流になりつつある

流れの中での

狂い咲きのような

あのハッチャケぶりを見よ!              
      

                            (8月17日)




笑いの宅急便 88便 ヒーリング・センテンスとは何か?その6

この世で一番大切なもの

みうら発言

「この世で一番大切なのは、

ロックかロックじゃないか、ですからね。

SPA!』誌上に連載中の「グラビアン魂」における

みうらじゅん氏の言葉である。

「グラビアン魂」とは、グラビアを鑑賞しつつ

みうらじゅん氏とリリー・フランキー氏が

与太話を展開するというしょーもない企画だが、

高円寺に住んでいたこともある私は、

基本的にB級のアングルが好きである。

あらゆるジャンルに網の目のように

張り巡らされた古い慣習や枠組みのために

決して口にすることができない本質を突いた言葉が、

B級のアングルからはけっこう拾えるものである。

 

先のみうら氏の発言などは、

世界中の政治家、思想家、宗教家、経営者、及びグラビアアイドルたちに聞

いてもらいたい発言である。

そう・・・。

あらゆるジャンルにおいて

ロックかロックじゃないかは真に重要な問題である。

 

ロックになり得た思想

かつてマルクスの思想が

強い影響力を持ち得たのは、

当時の時代状況に対して彼の思想が

広い意味でのロック(時代状況をゆさぶるもの)になり得ていたためである。

逆に現代という時代は、学問や思想や芸術が

ロックになりにくい時代である。

 

心理学というジャンルにおいても

今のところ

「あそこまでいくともうロックだな」

と言えるほどのものはほとんど登場していない。

何かがロックになり得るには、

コンセプトやノウハウだけではなく

「美」が求められるからである。

しかもその「美」がダイナミックに燃焼してこそ

ロックに近づいていく。

 

ロックな心理学者

アサジョーリは深層心理学者としては例外的に

言葉の論理的用法のみならず

美的用法も視野に入れていた。

とはいうもののロジックの先行する彼の言葉は

クラシック音楽の香りは漂うが

ロックには成り得ていない。

 

だがムッソリーニが台頭した時期のイタリアで

自由主義的な思想のために

牢獄での生活もきっちり経験している彼の生き方はロックである。

そんな彼が志向した自由は、

かつてロックが追求した自由と相通じるものがある。

 

それは自分自身がいつの間にか、

とらえられてしまっている

小さな枠組みからの自由である。

創造的に考え、生きるためには、

自分の小さな枠組みを

拡大する仕掛けが必要になる。

だがそうして作られたはずの仕掛けがいつの間にか

私たちを拘束する装置として働き始めたら?

 

群衆の中の呼びかけ

もしも自分自身の名前すら

いつのまにか与えられた小さな枠組みだということに気づいたら?

自分の名前が呼ばれるはずのない

群衆の中で

誰かに呼びかけられた気がして

ハッとして振り向いたその瞬間、

人は根源的な問いかけにさらされる。

この名前の響きはいつから「私」のものになった?

私は一体いつからこの響きを自分の響きと思うようになった?

 

ほんの一瞬

今の名前につきしたがう以前の

あるいは、自己イメージと固く結びつけられた

文脈から自由になった未来の自分の

自己感覚が蘇るかもしれない。

ダイレクトに生命の本質に触れた

その瞬間の感覚を記憶に刻み込む言葉を

見つけられるのはひと握りの才能に恵まれた詩人くらいのもの。

未知の感覚を表す言葉を見つけられない我々は、

「スピリチュアルな体験」といった

曖昧な言葉を口にして、

すぐにその奇跡的な瞬間を見失い

日常のまどろみの中に連れ戻される。

 

呼びかける男の誘惑

そんな人々に対し

アサジョーリは呼びかける。

 

あなたが今の名前によって限定づけられる以前、

あるいは、あなたが今の名前にとらわれることのないほどに

自由になる未来。

その時の自己感覚を思い出しなさい。

そしてその自由で広大な自己感覚と

自分自身を結びつけなさい・・・と。

 

誰もが心の奥底で求め続けていながら

得られずにいる感覚が

いともたやすく手に入れられると言わんばかりである。

 

何という誘惑的な誘い文句。

さすがはイタリア男である。

こんな誘惑に乗りながら、人はまだロックを続けられるのだろうか?

それが問題である。                            

 

(07,6、29)

 

 


笑いの宅急便 第87便
ヒーリング・センテンスとは何か?その5
「名前」という響きの不思議

ヒーリング・センテンスの本質を理解するには

言葉に対する感度を高める必要がある。

だが、言葉に対する感覚がそれほど

鋭くなくてもその恩恵に浴することはできる。

 

谷川俊太郎に呼び出しをくらったり

センテンスを読んだだけで、

それを贈られた相手のルックスまで

言い当ててしまうような

感度の高さがないと

センテンスに込められたギフトを受け取れないのなら

ヒーリング・センテンスなど結局

一握りのエリートの占有物ということになってしまう。

それもまたつまらない話しである。

 

誰もがマイルス・デイビス(今、たまたまマイルスを聴いているのでマイルスと言っていますが、ここは基本的にそれなりのミュージシャンであればいいわけです)のような演奏はできるわけではないが誰もがマイルスの音楽を楽しむことはできる。

センテンスに関しても同じ事が言える。

マイルスの音楽に感応できる人は大勢いる。

だが、音との感応によって発生した感覚を

言葉で正確に辿るためには、

鋭い感覚力と言語表現力とが必要になる。

そうした要素が備わることで

人は、
言葉によって発生した波紋を

言葉で辿ることができる。

 

私がヒーリング・センテンスを作り始めた初期の段階で、

特に言葉に対する感度の高い人を選んでセンテンスを渡していたのは

彼らがセンテンスを受け取った際に発生する反応を

言葉で正確に辿ってくれるからである。

「名前」という響きの不思議

センテンスによって生じた反応を言葉に変換するには

ある程度の言語表現能力が必要とされるが、

単純にセンテンスに反応するだけなら

ほとんど誰でもできる。

では、単純にセンテンスに反応するためには、

どの程度の感度の高さが必要だろうか?

いささか、まわりくどい言い回しになるが

「群衆の中で自分の名前と似た響きを耳にした際に

もしかして自分の名前が呼ばれたかと思って

反応してしまう程度の感覚」ということになる。

人類はほとんど例外なく

「名前」という自分と関係の深い「響き」を与えられている。

言い換えるなら

特定の音の響きと自己イメージを固く結びつけている。

これほど普遍的な現象にも関わらず、いやだからこそ

私たちは日頃そのことを

ほとんど意識しないで生きている。

そのことの重要性にファンタジーという形で言及しているのが

ル・グウィンの『ゲド戦記』である。

同じテーマを深層心理学的文脈で語り

私たちの意識をより

本質的な領域へと

向かわせようとしたのが

ロベルト・アサジョーリの

『サイコシンセシス(統合心理学)』といえる。

アサジョーリは

脱同一化の手法を提示することで

自分の名前と自己イメージの

無自覚な結びつきを相対化する

筋道を示そうとした。

 

そしてもうひとつ。

彼は言葉とシンボルに対して

きわめて重要な事を語っている。

1, シンボルは人間の意識と無意識に影響を及ぼす
2、すべての言葉はシンボルとして捉えることができる

ヒーリング・センテンスの着想の基盤としては

これだけでは不十分だが

それでもアサジョーリの指摘は、

ヒーリング・センテンスのメカニズムに光をあてる

うえで貴重な示唆に溢れている。  

                       (07,6,21)
            

 



笑いの宅急便 第86便

ヒーリング・センテンスとは何か?その4

いかにして言葉に対する感度を高めるか
言葉に対する感度の高さ

ヒーリング・センテンスに対する

リアクションの大小は

人により大きく異なる。

センテンスを受け取ったことで

何らかの内的反応が起きていても

それを言葉で忠実にトレースできるかどうかの

言語能力も当然個人差がある。

 

心理学を本格的に学ぼうとしたら

まず言葉に対する感度を

徹底的に磨いていく必要がある。

人間の理性も感性も感情も

言葉と密接に結びついているので、

このことは当然のことと言える。

言葉に対する感度が研ぎ澄まされてくると、

誰かと少し言葉を交わしてみると

相手の言葉に対する感度というのは

なんとなくわかってくる。

そうなるとセンテンスに対して

どの程度のリアクションを示すかも

ある程度予想がつくようになる。

 

私が「あかね色のセンテンス」を渡した

イケメン君は、言葉による刺激を感受する能力、

さらにその刺激に対する反応を

自分の言葉で適確に表現する能力の

どちらにおいても合格ラインを遙かに上回っていた。

 

おそるべし谷川俊太郎

これは彼にセンテンスを渡した後で知ったことだが、

彼は詩人の谷川俊太郎と食事をしたことがあるという。

そのきっかけというのがふるっている。

彼が中学の卒業時に

谷川俊太郎の詩を引用して答辞を書いたのだという。

その答辞を学校側がネットに公開していたら、

谷川俊太郎本人から彼の通う学校に連絡が入り

「この生徒と話しをしてみたい」と申し出があったのだという。

彼は公休をもらい、谷川俊太郎と食事をする機会を得たのである。

その時、イケメン君が

「谷川さんは、どうして詩を書いて発表するんですか?」

と問いかけたところ

「食うためだ」

というシンプルかつ現実的な答が返って来たのが印象に残ったようだ。

ちなみに学校側はちゃっかりその機会に便乗し

谷川俊太郎氏に学校での講演を依頼したという。
それにしても、たかが中学生の書いた文章と

片付けてしまうことなく

わざわざ自ら連絡を取ってくるあたり

やはり谷川俊太郎という男ただ者ではない。

言葉の響きに対する感度の高さというやつを、

客観的にランクづけするのは難しい。

だが谷川俊太郎は、詩人ならではの直感で

イケメン君の言葉に対する

感度の高さに何かただならないものを感じたのであろう。

子どもの書いた文章にどのよううに反応するかには、

その人の言葉に対する感度の高さが表れてしまうものなのだ。

そもそも言葉の響きに対する感度というものは、学校教育の場などで

意識的に鍛えられる機会がないために、大多数の大人の響きに対する感度

は子どもの頃で止まってしまっているものなのだ。

いかにして言葉に対する感度を高めるか?

私は週のうちの何時間かを

子供たちに読み書きを指導することに

費やしているが、

入室前の体験授業では

200文字程度の作文を

2〜3本書かせることになっている。

書き言葉というのは怖ろしいもので、

その程度の作文でもその時点で子供が

どのくらいの作文力があるか、

普段どの程度活字に親しんでいるかなどが

如実に表れてしまうものである。

だがそれはあくまでもその時点でということで

その後の育て方次第ではどうにでも変わるものである。

言葉に対する感度というものは

ある程度生まれ持ったものもあるが、

後天的に研ぎ澄ましていくこともできる。

心理学もまだまだ言葉の可能性の探求という点で

やりきれていないことがたくさんあるのである。

私たちは人類はまだまだ言葉の可能性を

汲み尽くしてはいない。

 

では小学生から中学生くらいの

言葉に対する感覚が新しい人たちの言語能力をどう育てるか?

その答のひとつの例を示した本が

このほど出版されたのでご紹介しておきたい。

 

ここから先はひらたく言えば宣伝です。

宣伝の嫌いな方は読み飛ばしてください。

 

『これで書く力がぐんぐんのびる』工藤順一+国語専科教室 合同出版

 

全国に言葉を教育するための

機関はたくさんありますが、

人間の言語能力の育成に対して

これほど真剣に取り組んでいるところは

なかなか他にないのではないかと思います。

 

子供と大人の言語能力を本気で育てようと

考えている人にとって

この本は最初のとっかかりに過ぎないのですが、

それでも十分に参考になるところはあると思います。

この本では私の担当は第5章ですが、

その中で紹介している詩の作成のための技法は

大人相手のワークショップでも活用しているものです。

 

「人類は言葉、とりわけ書き言葉の可能性を

十分に引き出し切れていない。

もし書き言葉の可能性を

もっと活用できるようになったら

人類はまったく新しい可能性の扉を

開くことになる」

というのが私の立場です。

 

言葉に関する感度の養成において

子供向け大人向けという切り分けは、

本質を見失わせる要因になりかねないものです。

したがってこの本が子供向けに書かれているというのも

あくまでも便宜的なものです。

 

いずれにせよ心理学を

より深く探求するためにも

精度の高いセンテンスを作るためにも

言葉に対する感度を高めるための

質の高い訓練が必要であることは

一貫して変わることのない基本条件です

 

                    (2007,6,8)



笑いの宅急便 第85便 ヒーリング・センテンスとは何か?その3

生命の響きへの情熱

井上陽水の作曲技法
精度の高いセンテンスを作成するために必要とされる資質とはどのようなものだろうか?

私がまだ中学生の頃だったと思う。

J−POP(当時はJ−POPという言葉はなく、井上陽水は
ニューミュージック界の旗手と見なされていた)のパイオニアと言える
井上陽水が、ラジオで自らの作曲技法の秘密について語っていたことがある。

聞き手はたしかムッシュかまやつ。

記憶を頼りに思い起こしてみるとその時の陽水氏の話の内容は確か次のようなものであった。

「例えば、まず“ド・レ・ミ”というメロディーが浮かぶとしますよね。
そうしたらこの“ド・レ・ミ”というメロディーにぴったりの言葉を見つけるわけですね。
するとどうも“ヤ・マ・ダ”という言葉がフィットしそうだとわかる」

(ここで聞き手のムッシュかまやつ氏は爆笑)

「で、次にこの“ヤ・マ・ダ”につながりそうな、メロディーを探すわけです。
そうやって短いメロディーができたら今度はさらにそれにつながっていきそうな言葉を探して・・・。
そんな風に少しずつ言葉とメロディーをつなげながら歌を作っていくんですね。僕の場合・・・」

さらに井上陽水氏は、名作『氷の世界』の中の“白い一日”という曲について
次のようにコメントしていた。

「この曲の出だしの“まっ白な”の「ま」の音は、フォーク界、ロック界で
未だ誰も到達したことのない、前人未踏のニュアンスを表現することに
成功しています」

決して授業で教わったことなんかじゃない

陽水巨匠は冗談めかして話していたが中学生だった私は、そのとき
「なるほど詩的表現においては、意味だけじゃなく
それ以上に言葉の響きが重要なんだな」と悟った次第である。
こうしたことは中学の国語の授業では決して教えてくれなかった。
陽水さんのラジオ番組を聞いていなければ、
私はこれほど基本的で重要なことを
ずっと理解しないままに育ってしまったかもしれない。

さすがにそのラジオ番組を聴かなかったとしても
言葉の意味に気持ちを奪われ、
響きをまったく無視するような人間に育つことはなかったとは思うが、
そのことを意識して理解しているのといないのとでは大きな違いがある。

中学から高校にかけて、私はその後の人生を左右するような重要なことを
すさまじい勢いで吸収していたが、それらは尾崎豊が歌ったように
「決して授業で教わったことなんかじゃない」のである。

少年時代の出会いというものは本当に人の人生を大きく左右する。
私が中学生くらいの子供の教育につい熱をあげてしまうのは、
この頃の体験とも関係しているのかもしれない。

ハーメルンの笛吹男?

私に大事なことを教えてくれた井上陽水というアーティストは音の響き、
とりわけ声と言葉の響きに対してきわめて敏感なシンガーである。
もちろん言葉の響きに鈍感では、詩など書けるはずもないのだが、
陽水の響きに対するこだわりには他の追随を許さない何かが感じられた。

陽水が高中正義とのジョイントコンサートで、
“傘がない”の出だしを歌い出した時の衝撃は今も忘れない。
ギターのイントロの後、♪トーカーイでは・・・♪
と聴き手の心臓を直撃するようなあの独特のテノールが
響き渡った時には、会場全体が動いたようだった。
声の響きだけでここまで人の意識をもっていくのか・・・。
ハーメルンの笛吹男か、この人は・・・。

もちろん声の響きで人の意識を遠いところまで連れていく芸を
持っているのは、陽水だけではない。

響きの巨匠たち

中学生の頃から忌野清志郎のボーカルにずっと心を惹かれていて、
大学生になって人気絶頂のRCサクセションのコンサートに行く機会を得た
自分は幸せだった。
憂歌団の木村がこともあろうに加山雄三の“君といつまでも”を
カバーしたのを耳にしたときの「何、これ」という感覚は忘れがたい。

桑田佳祐の響きに対する、感性にはいつも驚かされてきたし、
ミスチルの桜井君のボーカルに涙する女の子がいるのもよくわかる。

UAの野性味あふれるボーカルに備わった心の深い領域を揺さぶる歌声には
感応せずにいられないし、
カバー曲をまるで違ったものにしてしまう
ソットボッセのやる気のなさそうな歌い方には新鮮な驚きを感じる。
NOKKOやYUKIのハートフルな歌声には心を洗われるし、
DJ OZMAのあろうことかアントニオ猪木の
「炎のファイター」をサンプリングするガッツには脱帽ものである。

海外に目を転じると、ブライアン・フェリーのこの世のものとは思えない
官能的な世界をクリエイトする歌声や、
レナード・コーエンの哲学的で奥深い世界を演出する深みのある声の響き。
さらに、声ではないが、マイルス・デイビスやキース・ジャレットの演奏には、
間違いなく聞き手を別世界にいざなう魔力が備わっている。

優れたミュージシャンは、みな「響き」によって現実の世界とは異なる
別世界をクリエイトする能力を備えている。