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ただいま配達中だよ〜♪



 笑いの宅急便



  3 笑いの臨界点

腹の底から笑えてますか?
心理学の視点から笑いを撃つ

笑いは国境を越えるよ〜♪






笑いの宅急便95便 醒めた詩人

醒めた詩人

論理とは何か?

その本質を追求し続けるのは、重すぎる課題だった。

世界は論理で成り立っているのか?

詩で成り立っているのか?

それが問題だった。

世界は詩で出来ていると

誰かが告げてくれたなら

それだけで楽になれたはずだった。

 

孤独だった。

だが笑う時間はあった。

 

論理を追求し続け

袋小路に追い込まれたあげくに

試みた

命がけの飛翔

その極みにのみ

詩は姿を現す?

そんなはずはないと教えてくれる

人たちに囲まれていたから

 

誰もが詩人だった。

眠れる詩人だった。

 

論理は人を醒めさせる

詩は人を酔わせ、同時に醒めさせる

 

論理を追求し続けたあげくに

詩的リアリティーに目覚めた詩人たちが教えてくれた

世界は詩で出来ていると

 

世界はまぎれもなく詩で出来ている・・・と

 

               (2008、6,20)

 

 



笑いの宅急便94便 ヒーリング・センテンスとは何か? その12

孤独を癒す言葉の贈り物

孤独が癒されるとき

自分のために生み出されたヒーリング・センテンスを受け取ったとき、

長い間感じていた孤独感が癒されたという人がいる。

それは別に孤独を癒すというニーズに合わせたものではなかったが、

たしかにそ
ういうこともあるかもしれない。

センテンスは比喩的に言うなら

受け手の心の襞に沿うように

丁寧に作り込まれたキーフレーズの集まりだからである。

鍵と鍵穴がぴったりと合うように、

一人の人間の感覚の襞に寄り添う言葉。

それがヒーリング・センテンスである。

 

目には見えない

自らの感覚の形を映し出す

言葉の織物は

人と言葉、

人と人の出会いの妙を

伝えてくれる。

 

それは時として想像以上の効果をもたらすが

その作成のプロセスには

何ら神秘めいたものは介在しない。

 

もしも何らかの神秘性が介在するとしたら

それは言葉という現象そのものに付随するものである。

そもそも人間が言葉を操り

他者と交流する過程そのものが

実は神秘的なものである。

 

子供の言葉とのつきあいかた

例えばみなさんは子供の書く

文章にどの程度接したことがおありだろうか。

文章というものは

不思議なもので

どんなにつたない文章でも

他の子にはないその子なりの筋のようなものが

滲みでてしまうものなのである。

内気で自分のことをうまく表現できないような

子供でも、その子の書いた文章を読めば

その子が何を考え、何を感じているのか

ちゃんと理解できる・・・いや・・・感じとれる。

その子供の家庭や学校での様子や

その日の体調までが感じ取れることもある。

 

子供の文章を添削するうえで

留意すべき点は

枝葉の部分は遠慮なく

手を入れ、整えても

その子本来の筋は残しておくこと。

そうするとその子なりの軸を宿した文章が

しっかり成長していく。

子供の文章の成長は

彼らの内面の成長にダイレクトに結びつく。

 

私は植木屋さんという

職業について、

詳しく知っているわけではないが、

木を育てる際にも

おそらく似たような感性が働いているのではなかろうか。

 

余分な枝葉は取り払っても

根は傷つけないように注意する。

それさえ守っていれば

相手は自然に成長していく。

文章という媒介を通すと

子供との間でそうした関係を

作り出すことができる。

 

作り手と受け手の稀有な関係性

ヒーリング・センテンスの作成の過程もこれとよく似ている。

受け手のコアに響く言葉だけを残し、

枝葉の部分は、どんどんそぎ落としていく。

その過程で、センテンスの作り手と受け手は

無数のことを考え想像し感じ取る。

これは書き言葉を媒介にすることで初めて

成立し得る関係性である。

 

書き言葉の可能性

書き言葉の可能性について

人類がまだ気づいていないことはたくさんある。

心のどこかでそのことを理解していた人たちは、

その洞察を「詩」という形式で遺していった。

 

そして一方では

無意識の科学の先駆者とも言える

精神分析学も

詩人たちと同じ領域を探求しようとした。

精神分析学の創始者

フロイト自身も、

詩人たちが自らの仕事の先駆者的な

存在であることを認めていた。

 

ヒーリング・センテンスは、

無意識の科学の先駆者たる精神分析学が探索した

領域を探検するうちに

いつのまにか詩人たちの住む領域に

足を踏み入れてしまった結果生まれたものとも言える。

 

意識の科学の行方

今、意識に関する科学はどうなっただろう?

クリティカル・シンキング、ストーリー理論、イメージ誘導・・・。

深層心理学的研究から派生した学問的成果は

今やCMや、マーケティングや交渉術のために転用され、

お金儲けの道具として利用されている。

学問的成果がビジネスフィールドで利用されることは

資本主義社会においては、いたしかたのいないことである。

いやむしろ歓迎すべき点も多い。

認知心理学はコンピューターの発達に貢献したし、

新しい教育方法の扉を開く際にも大いに貢献してくれるはずである。

この頃では教育もひとつのサービス産業として捉えるという

見方が一般化しつつある。

資本主義社会において

お金儲けの価値を否定することはできない。

 

だが・・・。

本来、学問とはより崇高な目的のために仕えるべきものでは

なかったのだろうか?(ここは笑うところではありませんが、

笑いたい方はここでどうぞ。ここを逃すともう笑うところはありません)

 

そしてどこにでもいた、無名の詩人たちは

どこに行ったのだろう?

 

かつて安酒場には、

詩人たちがゴロゴロしていた。

彼らは決して詩を書くことなどなかったが、

詩心は持っていた。

そんな飲んだくれの連中と

呑む酒はおいしかったし、

彼らと

お酒を飲めさえすれば、

ことさらに人生の意味など

問い直す必要もなかった。

私もわざわざ

ヒーリング・センテンスなど

創る必要もなかった。

 

だが、今・・・。

飲んだくれの呟きでさえ

言葉から数字に変わろうとしている。

ゆとりを失った乾いた精神は

生の意味を見失おうとしている。

 

リルケの口にした

「生と死をつなぐことこそが詩人の役割である」

という言葉に耳を傾ける酔っぱらいが安酒場に

どのくらいいるのだろう?

詩が死の世界への扉であることを

確認するために酒を飲んでいる

酔っぱらいの数は?

 

私自身ここのところ

お酒を飲む機会がめっきり減ってきた。

その代わり

目の前の相手の心の襞を感じ取り

その襞に寄り添うような言葉を

紡ぎ出す機会が増えた。

そしてほんのひとときでも

孤独が幻想に過ぎないことを確認しあう。

アルコールと違い、

目の前の相手と共に燃やした命はセンテンスという

形で結晶化する。

生命を燃やすための燃料が

アルコールから言葉に変わっただけかもしれないが、

結晶化したセンテンスは、目の前の相手以外の

誰かの役に立つこともあるかもしれない。

アルコールだけでは、癒しきれない

渇きや孤独を抱えた人々が増えてきた時代でなければ

ただの酔っぱらいでいられたかもしれないのに。

もうそんな風に嘆いている場合でもないのかもしれない。

おそらく今はそんな時代なのだ。

 

 

                      (2007,9,28)

 

P.S.先日ある大学生と話したとき

「心の襞」という表現を知らなかったことに

ちょっぴり衝撃を受けた。

美しい日本語は何とかして残していかないと。


笑いの宅急便 93便 ヒーリング・センテンスとは何か?その11
鏡としての笑い

 

笑いは固定した真実を伝える教義的な言説からはもっとも遠いところにある。
それは老荘思想の伝える「タオ」にも似て玄妙で捉えがたい。

 

変化する笑いのツボ

人々の笑いのツボは時代と共に変化する。半年前には笑えたネタが今は笑えなかったりする。このことは受け取り手の感性の変化というより、時代背景の影響が大きいように思える。

新しい孤独や新しい哀しみを追求しているという作家や脚本家の話はあまり耳にしない。時代が変わっても人々が孤独や悲しみを感じるシチュエーションの大枠は似通っているからである。
怒りや、悲しみ、孤独あるいは愛や喜びという感情は、文化的、時代的背景を越えて普遍性を獲得しやすい。それゆえに文学や映画というジャンルにおける古典的な名作は、今でも現代人の心を深くゆり動かす力を保ち得る。
だが笑いとなるとそうはいかない。
背景に対する理解がなければ古典落語で爆笑するのは難しい。

笑いは常に新しいものの側につく。
笑いのプロが、新しい笑いのスタイルの追究を迫られるのはそのためである。

新しさは、笑いという感情を呼び起こす重要な触媒のひとつである。

日本的笑いという現象

笑いを生み出す触媒は、時代や文化的背景によって微妙に形を変える。そのため笑いを発生させる触媒のエッセンスは、時代や場を共有していない人々には伝わらないことが多い。

ビートたけしが映画監督として国際的な名声を得た際の、海外のジャーナリストのとまどいぎみのコメントを思い出す。

「この人物は、日本という国において微妙な地位にいるようである。彼が何か言うと、観衆は肩をふるわせて笑う」

確かに東京の下町の住人の目線をベースに練り上げられたネタが、欧米のジャーナリストの感性に訴えるとは思われない。笑いは時代精神を映し出す鏡であるだけでなく文化を映し出す鏡でもある。ビートたけしのギャグにとまどう、海外のジャーナリストの姿は、異文化に属する彼らの目には見えない日本文化の醸し出す空気の輪郭を描き出す。

笑いという感情はもっとも微妙な道筋を通る
笑いを発生させる特定の触媒に反応するためには、その触媒に反応する空気をつかみ取る感性が求められる。

現代という時代は笑いの通る道も細分化され、細かすぎて伝わらない物まねまでもがひとつの笑いのジャンルとして成立する時代である。それは一面では笑いの線が細くなっているということでもある。

私が幼い頃には、腹の底から笑う人はそこにもここにもいた。
腹の底からこみ上げてくる、骨太で
余韻を残す笑い。
それは昭和の笑いとでも言えるだろうか。

現代ではそんな風に笑う人はあまりいない。
今の主流の笑いは、スピーディーで表層的。
時にシニカルで瞬時にして消費されてしまう
ある種ポストモダン的な笑いとでも言えるだろうか。

腹の底からこみあげてくる笑いにはある種の突き抜けた感覚が伴う。
その感覚はたとえ一瞬でも孤独や哀しみや怨嗟やらジェラシーやらといった諸々の複雑な感情から人々を解き放つ。

聞き手の意識を表面的に操作することで発生する笑いとは根本的に異なる突き抜けた感覚。
それは固く閉ざされた現代人の感性が解放される時空に降り立つ。

感性の解放・・・。
言葉にするのは、たやすいが
そのための具体的で有効な技法となると教育的ノウハウや心理学的手法の中にも容易に見つけることは出来ない。

だが競争社会の中で閉ざすことを要求されている感覚的領域は、
状況が整えば
黙っていても自然に開くというほど簡単なものではない。
感覚が閉ざされてくると人は自分が苦しんでいることにすら気づかなくなる。

今、生きるため必要なのはシンプルに感じること。

P.S.
久々にCDを購入。
クレイジーケンバンドのSOUL電波。
お、やってるな、ケンあにぃ。

 

            (2007/09/06)

 

 

 


笑いの宅急便 92便 ヒーリング・センテンスとは何か その10

空気読むならとことん読もう
どうせ空気を読むのなら、
途中で立ち止まらず突き抜けてしまえばいい

今日、ロジックの重要性が叫ばれ

資本の論理にしたがって、M&Aが行われ

ビジネスの世界も刻々と変化していっている。

教育の世界にまで資本の論理の波は押し寄せ

今や塾業界でもM&Aが行われる時代である。

さらには公教育に従事する教員から、大学の教員に至るまで

サービス業という意識の低い者は淘汰される時代になりつつある。

 

資本の論理にしたがえば、それも合意せざるを得ない。

だが、資本の論理のみを拠り所にM&Aを仕掛けてくる

資本の力に対して「少しは空気読めよ」

突っ込みを入れたい人も

案外多いのではないだろうか。

どれだけロジックの重要性が叫ばれても

目に見えない人々の心情が醸し出す

空気を大切にするという日本人の気質は

そう容易には変わらない。

 

ならば中途半端にロジックにしたがい、

中途半端に空気を読んで立ち止まるのではなく

「空気を読む」という方向をとことん突き進んで

突き抜けてしまえばいい。

ロジックなどそれからでも相手にできる。

ヒーリング・センテンスというのは、とことん空気を読みイマジネーションを

膨らませまくる
という方向を突き進んだうえで、なんとかロジックと折り合

いをつける
途上で誕生した産物である。

知人から

ヒーリング・センテンスという言葉を商標登録するようにと

アドバイスされたが、この際ネーミングはどうでもいいのである。

大事なのは、本当に受け手の意識に響きをかけられるだけの

センテンスを創る過程である。

 

ヒーリング・センテンスと呼ぼうが

コーチング・センテンスと呼ぼうが

ティーチング・センテンスと呼ぼうが、

あるいは単に詩と呼ぼうが、

聞き手の意識に「響き」をかけられるだけの

言葉を紡ぎ出すには、

まず「空気を読む」能力にある程度磨きをかける必要がある。

その過程を通過することなく

ヒーリング・センテンスというネーミングだけを

コピーしてセンテンスを作成したところで

単なる空疎な言葉の羅列になってしまう。

 

この領域は、簡単に理論化できず

容易にマニュアル化もできず、

それゆれにビジネス化もしづらい領域なのである。

古今東西を問わず詩人というと美しくも貧乏な印象が

つきまとうのも
そのことと無関係ではない。

ヒーリング・センテンスの役割りのひとつは

この「貧乏な詩人」という元型的イメージを

反転させることにあるのかもしれない。

リッチな人にも詩的精神は宿り得る。

リッチな詩人が生きられる世界は

おそらく今よりは美しい。

詩人の魂を宿した資本の論理が成立する社会。

どんなに突飛な想像も描くのは自由である。

「空気」を感じるセンサー

私の最初の身体技法の師匠から

聞いたエピソードで印象に残っているものがある。

彼は駅に降りてみたたけでその街が

発展するかどうかはすぐにわかるという。

これから発展する街は街全体の

気が燃えるようだというのである。

 

このエピソードを耳にした頃、

私はまだほんの子供だったが

明治生まれの老人が何気なく

語ってくれたこの話しには妙なリアリティーが感じられた。

 

もともと地理上の「土地」にはそれぞれ特有の性質が備わっている。

この特有の性質とそこに集う人々の相互作用によって独特の性質と磁力

帯びた「場」が生み出される。

彼はその場が放つ「気」を感じ取るセンサーが人並みはずれて発達して

いたようである。

空気を読む能力を研ぎ澄ましていくことで、

様々な分野で活用可能な能力を育てることができることを、

この老人は教えてくれた。

彼は現代の日本人にはなかなか見つからない

ある種の「突き抜けた」感じの漂う人物であった。

空気を読む方向をとことん突き進み、突き抜けたあげく、

自分が空気を作り出すに至った

人間のみに備わる風格が漂っていた。

 

残念なことに現代の日本人には、こうした先人が遺してくれた

知恵が十分に伝わってはいないようである。

現代の日本人は、どちらかというと空気を読む能力を

上手に活用しているというよりも、

もてあましているように見えることもある。

せっかくの空気を読む能力が

その場を表面的にやり過ごすことに費やされ

かえってリアリティーを回避する方向で働いているようなのだ。

空気を読む能力をリアリティーを回避する方向で活用するか

リアリティーに触れる方向で活用するかの違いは大きい。

さらに空気を読む能力をリアリティーを表現する

方向で活用することが出来るようになれば、

私たちは、想像している以上に大きなものを手に入れることが

できるようになるはずである。

 

 

                                (2007年9月4日)

 


笑いの宅急便 91便 ヒーリング・センテンスとは何か?その9

空気を読み過ぎる若者たち
リアクションの取り合いとしての笑い芸

知り合いのお笑い芸人の卵から
聞いた話だが、お笑いの基本は
リアクションの取り合いだという。
いかにタイムリーに
その場にふさわしいリアクションが取れるか?
あるいは相手がリアクションの取りやすいアクションを起こせるかが
お笑い芸人としての重要な素養となる。
その意味でお笑いの世界は
コンマ何秒差が笑えるか笑えないかの
分かれ目となるシビアな世界である

その一方、お笑いというジャンルには
リアクションの取りようがない芸の系譜も
存在する。

あるタレントが小島よしおの芸を
見せられたあとコメントを求められ
「何て言えばいいんですか?」
と絶句していたが、
これは小島よしおの芸に対する自然なリアクションである。

リアクションの取りようがないのである。

敢えてリアクションの取りようのない状況を生み出す芸というのも
笑いの心理学を考えるうえでは重要なテーマとなる。

空気を読み過ぎる若者たち

「昨今の若者たちは、本来なら瞬間的に無思考で
とるべき「リアクション」を、空気を読みながら計算して取ることを
時代精神に要請されている!!」

これは、サイコシンセシスの講座に参加してくれている
プロコーチのグループのメンバーの

田村洋一氏の言葉である。
(我々は彼をダンナと呼びます)
この「空気を読む」という作法は日本文化に
特有なもののようである。

私がアメリカで心理学を学んだときには、
いちいち言葉に出さなくても
分かりそうな
自明の前提をいちいち
言語化することに違和感を感じたこともある。

だが多様な民族がひしめきあう国家においては
お互いが無言のうちに共有し得る自明の前提というのは
きわめて成立しづらいのである。

したがって国際基準に照らし合わせてみると
日本人にとっての「自明の前提」あるいは、
「暗黙の了解」というのは、きわめてローカルなものであるとも言える。
それに比べなんでもひ
とつひとつ筋道立てて説明を試みる文化の方が普遍性を持ちやすい。

「暗黙の了解」の部分をお互いに空気を読むことで理解し合おうとする文化は当の日本人が気づいている以上に繊細で洗練された文化的土壌を育んだが、今のままでは日本国内でしか通用しない。

だがこの文化を単に日本国内でのみ通用するローカルなものとして切り捨ててしまうのはあまりにももったいない。
私個人は日本特有の「空気を読む」文化も、うまく育てればロジックに基づくコミュニケーション以上の普遍性を持ちうると考えている。

かつて私の好きなミュージシャンの桑田佳祐が
「言外の意味に対する感応力というかテレパシーみたいなものは、
絶対俺たち(日本人)の方が上」という意味のことを言っていたが
日本人独特の「空気を読む文化」は、お笑い、音楽、ビジネス、政治、あらゆるシーンで作用しているようである。

もちろん「空気を読む文化」にはいい面ばかりがあるわけではない。
この文化がいい方向に作用すると組織やチームが、それぞれ自分の役割りを無言のうちに理解してスムーズに動く方向で展開する。

ところがマイナスの方向に作用すると、それ自体がプレッシャーになってパターン化されたコミュニケーションしか出来なくなるという副産物を生んでしまう。あるいは特定の場における暗黙のルールを察知できない者が排除されたり教育現場でのイジメにつながったりということも起こりうる。

そんな中、日本は国際化の必要性を感じ、
なんとか国際社会で通用するロジックを身につけようとしているが、
それもまだ発展途上。

「空気を読む」にも「論理的に話す」にも
どちらにも徹しきれていない今の日本の状況の中
そのどちらもすんなり使い分け出来ているような人は
まだまだほんの一握りのように思える。

今の時代は、空気を読む文化が洗練化され
抑圧装置として機能する一方で
筋道を立てて考え意見を述べるためのたロジックの必要性についても
多くの人がわずらわしさを感じ時には混乱を抱えるという
過渡的で板挟み的な状況にあると言える。

そのような状況で「空気を読む文化」から発生する無言の圧力も
論理的な説明を求められることからくるわずらわしさも
そのどちらも破壊するごとく「そんなの関係ねー」と
叫びたい人が現れるのも無理からぬ話しである。

こういう状況における
「そんなの関係ねー」の背景に隠された思いとしては、
「いちいち空気読んでリアクション取っていられるか」
「いちいち空気読んでリアクション取らなくてもいいんだって」
「空気を読まない奴にいちいち細かいこと説明していられるか」

そのいずれもあてはまりそうである。

とはいうものの
生きづらい板挟み的状況に対し

「そんなの関係ねえ〜」
とリアクションすることでお金が取れるのは
お笑い芸人以外の人には真似できない。

大方の人には、
板挟み的な状況を乗り越えるためには
論理を極めるか
あるいは空気を読む方向で
突き進んで突き抜けるのが
手っ取り早い道筋である。
ではいかにして?
それが問題である。

 

 

                               (2007年8月31日)

 

 


笑いの宅急便90便 ヒーリング・センテンスとは何か? その8

心理学的手法としてのお笑い芸・・・パート2

笑いを愛した男

笑いによって発生する

心のやわらかさ、軽やかさは

アサジョーリが愛したもののひとつである。

笑うことで人は余計な重荷を

下ろし精神は柔軟性を回復する。

 

優れたユーモアの持ち主は

優れたヒーラー(癒し手)である。

 

質の高いお笑い芸は

観客の気持ちをときほぐし、

軽やかにする。

お笑い芸というのは、

特定のアクションを取ることで

観客の脳に化学反応を引き起こす

一種の心理学的手法といえる。

したがって一流のお笑い芸人の条件のひとつとして、

人間の心理について何事かを

つかんでおくことが挙げられる。

 

心理学的手法としてのお笑い芸

ビートたけしが、

映像の方面に興味のベクトルを向けた理由を説明する際、

「オレたち芸人は、しゃべって、しゃべって、

客の頭の中に

絵を描いているんだ」

と語っていたことがある。

たけしさん本人は、自分が心理学的手法に

ついて語っていたという自覚はないと思うが、

五感を刺激する

イメージを喚起しやすい言葉を

駆使するテクニックは

サイコシンセシスのイメージ誘導の基本でもある。

 

お笑い芸の世界では

発想の惰性化、固定化は命取りになるが

サイコシンセシスの実践者が

もっとも警戒するのも発想の固定化である。

 

こうしてみるとサイコシンセシスの体系は

深層心理学よりも

はるかに伝統のあるお笑い芸の系譜に

位置づけられるようにも

思えてしまうが

両者には決定的な違いがある。

 

お笑いの技術と実践が

笑いを取る(瞬間的に聞き手の心を

重荷から解き放つ)ことを目指すのに対し

サイコシンセシスのような心理学的手法の実践者は、

より中、長期的な視点から笑いを考える。

すなわち持続性のある気持ちの軽さ、

やわらかさを志向する。

それが両者の本質的な違いである。

 

伝統的なお笑いの咲かせる花の命は

一瞬である。

その一瞬に賭ける心意気に

笑いというジャンルで

生きる人々の潔さが滲むが

そこまで潔く生きられるのは

一握りのエリートだけではなかろうか?

たけしさんのように

死を凝視することで

生を浮き立たせる生き方と連動した芸風。

一時期の松ちゃんのように

狂気と紙一重のところで

バランスを取りながら

練り上げたネタで笑いを取る芸風。

彼らの生み出した芸風は多くの人の心に

笑いの花を咲かせたが、誰もが彼らのように

生きられるわけではない。

 

笑いという花

アサジョーリの遺した心理学体系は語る。

花の命は短いからこそ美しい。

だが、花が散った後も

木も、枝も、葉も生き続ける。

人は花の美しさだけを見て

生き続けることは出来ない。

花が咲いている時は

花の美しさを楽しめばいい。

だが、花が散った後の

木の美しさに目を向けることがなければ、

人は美を部分的にしか理解できない。

 

笑いという瞬間に咲く花の美しさも

目には見えない根の力に支えられて初めて

誕生し得る。

 

それがお笑いというジャンルへの

サイコシンセシス的理解である。

 

                        (2007年8月20日)

 

 




笑いの宅急便89便 ヒーリング・センテンスとは何か?その7
心理学的手法としてのお笑い芸

小島よしおの芸風

先日私は共に心理学を研究している

プロコーチのグループのメンバーの

メーリングリストに、

小島よしおの動画を送付した。

海パン姿で「オッパッピー」とやるアレである。

きっとみんなまた私の気まぐれな

悪ふざけだと思っているに違いない。

たしかにちょっとした悪ふざけなのだが

それだけではない。

小島よしおの姿に「何か」

を感じたのもたしかである。

 

基本的にお笑い芸というのは、

単なる悪ふざけでは絶対に成立しない。

悪ふざけのように見える芸でも

思うように笑いの取れない芸人が

なんとか笑いを取るための苦肉の策として

生み出した芸風なのである。

小島よしおについて言えば

初期の山本太郎に近い芸風だが

山本太郎が半ば本能で

「メロリンキュー」とやっていたのに対し

小島よしおはそれなりに苦労して今の芸風を

生み出したのが感じられる。

ここしばらくは

余計なことは

考えずに彼の放つ尋常ならざるパワーを

楽しみたいところだが、

どうしても考えてしまうことがある。


約束事をぶっ飛ばせ


タモリ、ビートたけし、松ちゃん、太田光・・・。

彼らはみな知的である。

さらにかつてのふかわりょうに始まり、

今のだいたひかるに至る

いわゆるあるあるネタを

持ち芸にする芸人もかなり

観察力が鋭く知的である。

あるあるネタとは、

日常生活で誰もが体験するような

ありきたりのトピックを題材に

ネタを練り込んで

聞き手の心理の盲点を突くように

笑いを取るスタイルだが、

これは発信する側にも受け取る側にも

それなりの感度の高さや

知的要素が要求される芸風である。

こうした芸風が成立するということは

お笑いというジャンルそのものが洗練されてきている

ということである。

あるジャンルが洗練されてくるということは

それだけ目には見えない

細やかな約束事が増えてくるという

ことでもある。

お笑いの世界のみならず

様々なジャンルで細かい約束事が増えてきているのが

今の時代である。

あれを言ってはいけない。

これを言ってはマズイ。

特定の場に流れる空気を読めない

人間は切り捨てられる。

そうした状況に息苦しさを感じている

人たちにとって、

小島よしおの

「そんなの関係ねー」

はなんとも痛快に響くに違いない。

「そんなの関係ねー」

そう大声で叫びたい人が増えてきた時代に

小島よしおの芸風は受け入れられたのである。

知的な芸風が主流になりつつある

流れの中での

狂い咲きのような

あのハッチャケぶりを見よ!              
      

                            (8月17日)




笑いの宅急便 88便 ヒーリング・センテンスとは何か?その6

この世で一番大切なもの

みうら発言

「この世で一番大切なのは、

ロックかロックじゃないか、ですからね。

SPA!』誌上に連載中の「グラビアン魂」における

みうらじゅん氏の言葉である。

「グラビアン魂」とは、グラビアを鑑賞しつつ

みうらじゅん氏とリリー・フランキー氏が

与太話を展開するというしょーもない企画だが、

高円寺に住んでいたこともある私は、

基本的にB級のアングルが好きである。

あらゆるジャンルに網の目のように

張り巡らされた古い慣習や枠組みのために

決して口にすることができない本質を突いた言葉が、

B級のアングルからはけっこう拾えるものである。

 

先のみうら氏の発言などは、

世界中の政治家、思想家、宗教家、経営者、及びグラビアアイドルたちに聞

いてもらいたい発言である。

そう・・・。

あらゆるジャンルにおいて

ロックかロックじゃないかは真に重要な問題である。

 

ロックになり得た思想

かつてマルクスの思想が

強い影響力を持ち得たのは、

当時の時代状況に対して彼の思想が

広い意味でのロック(時代状況をゆさぶるもの)になり得ていたためである。

逆に現代という時代は、学問や思想や芸術が

ロックになりにくい時代である。

 

心理学というジャンルにおいても

今のところ

「あそこまでいくともうロックだな」

と言えるほどのものはほとんど登場していない。

何かがロックになり得るには、

コンセプトやノウハウだけではなく

「美」が求められるからである。

しかもその「美」がダイナミックに燃焼してこそ

ロックに近づいていく。

 

ロックな心理学者

アサジョーリは深層心理学者としては例外的に

言葉の論理的用法のみならず

美的用法も視野に入れていた。

とはいうもののロジックの先行する彼の言葉は

クラシック音楽の香りは漂うが

ロックには成り得ていない。

 

だがムッソリーニが台頭した時期のイタリアで

自由主義的な思想のために

牢獄での生活もきっちり経験している彼の生き方はロックである。

そんな彼が志向した自由は、

かつてロックが追求した自由と相通じるものがある。

 

それは自分自身がいつの間にか、

とらえられてしまっている

小さな枠組みからの自由である。

創造的に考え、生きるためには、

自分の小さな枠組みを

拡大する仕掛けが必要になる。

だがそうして作られたはずの仕掛けがいつの間にか

私たちを拘束する装置として働き始めたら?

 

群衆の中の呼びかけ

もしも自分自身の名前すら

いつのまにか与えられた小さな枠組みだということに気づいたら?

自分の名前が呼ばれるはずのない

群衆の中で

誰かに呼びかけられた気がして

ハッとして振り向いたその瞬間、

人は根源的な問いかけにさらされる。

この名前の響きはいつから「私」のものになった?

私は一体いつからこの響きを自分の響きと思うようになった?

 

ほんの一瞬

今の名前につきしたがう以前の

あるいは、自己イメージと固く結びつけられた

文脈から自由になった未来の自分の

自己感覚が蘇るかもしれない。

ダイレクトに生命の本質に触れた

その瞬間の感覚を記憶に刻み込む言葉を

見つけられるのはひと握りの才能に恵まれた詩人くらいのもの。

未知の感覚を表す言葉を見つけられない我々は、

「スピリチュアルな体験」といった

曖昧な言葉を口にして、

すぐにその奇跡的な瞬間を見失い

日常のまどろみの中に連れ戻される。

 

呼びかける男の誘惑

そんな人々に対し

アサジョーリは呼びかける。

 

あなたが今の名前によって限定づけられる以前、

あるいは、あなたが今の名前にとらわれることのないほどに

自由になる未来。

その時の自己感覚を思い出しなさい。

そしてその自由で広大な自己感覚と

自分自身を結びつけなさい・・・と。

 

誰もが心の奥底で求め続けていながら

得られずにいる感覚が

いともたやすく手に入れられると言わんばかりである。

 

何という誘惑的な誘い文句。

さすがはイタリア男である。

こんな誘惑に乗りながら、人はまだロックを続けられるのだろうか?

それが問題である。                            

 

(07,6、29)

 

 


笑いの宅急便 第87便
ヒーリング・センテンスとは何か?その5
「名前」という響きの不思議

ヒーリング・センテンスの本質を理解するには

言葉に対する感度を高める必要がある。

だが、言葉に対する感覚がそれほど

鋭くなくてもその恩恵に浴することはできる。

 

谷川俊太郎に呼び出しをくらったり

センテンスを読んだだけで、

それを贈られた相手のルックスまで

言い当ててしまうような

感度の高さがないと

センテンスに込められたギフトを受け取れないのなら

ヒーリング・センテンスなど結局

一握りのエリートの占有物ということになってしまう。

それもまたつまらない話しである。

 

誰もがマイルス・デイビス(今、たまたまマイルスを聴いているのでマイルスと言っていますが、ここは基本的にそれなりのミュージシャンであればいいわけです)のような演奏はできるわけではないが誰もがマイルスの音楽を楽しむことはできる。

センテンスに関しても同じ事が言える。

マイルスの音楽に感応できる人は大勢いる。

だが、音との感応によって発生した感覚を

言葉で正確に辿るためには、

鋭い感覚力と言語表現力とが必要になる。

そうした要素が備わることで

人は、
言葉によって発生した波紋を

言葉で辿ることができる。

 

私がヒーリング・センテンスを作り始めた初期の段階で、

特に言葉に対する感度の高い人を選んでセンテンスを渡していたのは

彼らがセンテンスを受け取った際に発生する反応を

言葉で正確に辿ってくれるからである。

「名前」という響きの不思議

センテンスによって生じた反応を言葉に変換するには

ある程度の言語表現能力が必要とされるが、

単純にセンテンスに反応するだけなら

ほとんど誰でもできる。

では、単純にセンテンスに反応するためには、

どの程度の感度の高さが必要だろうか?

いささか、まわりくどい言い回しになるが

「群衆の中で自分の名前と似た響きを耳にした際に

もしかして自分の名前が呼ばれたかと思って

反応してしまう程度の感覚」ということになる。

人類はほとんど例外なく

「名前」という自分と関係の深い「響き」を与えられている。

言い換えるなら

特定の音の響きと自己イメージを固く結びつけている。

これほど普遍的な現象にも関わらず、いやだからこそ

私たちは日頃そのことを

ほとんど意識しないで生きている。

そのことの重要性にファンタジーという形で言及しているのが

ル・グウィンの『ゲド戦記』である。

同じテーマを深層心理学的文脈で語り

私たちの意識をより

本質的な領域へと

向かわせようとしたのが

ロベルト・アサジョーリの

『サイコシンセシス(統合心理学)』といえる。

アサジョーリは

脱同一化の手法を提示することで

自分の名前と自己イメージの

無自覚な結びつきを相対化する

筋道を示そうとした。

 

そしてもうひとつ。

彼は言葉とシンボルに対して

きわめて重要な事を語っている。

1, シンボルは人間の意識と無意識に影響を及ぼす
2、すべての言葉はシンボルとして捉えることができる

ヒーリング・センテンスの着想の基盤としては

これだけでは不十分だが

それでもアサジョーリの指摘は、

ヒーリング・センテンスのメカニズムに光をあてる

うえで貴重な示唆に溢れている。  

                       (07,6,21)
            

 



笑いの宅急便 第86便

ヒーリング・センテンスとは何か?その4

いかにして言葉に対する感度を高めるか
言葉に対する感度の高さ

ヒーリング・センテンスに対する

リアクションの大小は

人により大きく異なる。

センテンスを受け取ったことで

何らかの内的反応が起きていても

それを言葉で忠実にトレースできるかどうかの

言語能力も当然個人差がある。

 

心理学を本格的に学ぼうとしたら

まず言葉に対する感度を

徹底的に磨いていく必要がある。

人間の理性も感性も感情も

言葉と密接に結びついているので、

このことは当然のことと言える。

言葉に対する感度が研ぎ澄まされてくると、

誰かと少し言葉を交わしてみると

相手の言葉に対する感度というのは

なんとなくわかってくる。

そうなるとセンテンスに対して

どの程度のリアクションを示すかも

ある程度予想がつくようになる。

 

私が「あかね色のセンテンス」を渡した

イケメン君は、言葉による刺激を感受する能力、

さらにその刺激に対する反応を

自分の言葉で適確に表現する能力の

どちらにおいても合格ラインを遙かに上回っていた。

 

おそるべし谷川俊太郎

これは彼にセンテンスを渡した後で知ったことだが、

彼は詩人の谷川俊太郎と食事をしたことがあるという。

そのきっかけというのがふるっている。

彼が中学の卒業時に

谷川俊太郎の詩を引用して答辞を書いたのだという。

その答辞を学校側がネットに公開していたら、

谷川俊太郎本人から彼の通う学校に連絡が入り

「この生徒と話しをしてみたい」と申し出があったのだという。

彼は公休をもらい、谷川俊太郎と食事をする機会を得たのである。

その時、イケメン君が

「谷川さんは、どうして詩を書いて発表するんですか?」

と問いかけたところ

「食うためだ」

というシンプルかつ現実的な答が返って来たのが印象に残ったようだ。

ちなみに学校側はちゃっかりその機会に便乗し

谷川俊太郎氏に学校での講演を依頼したという。
それにしても、たかが中学生の書いた文章と

片付けてしまうことなく

わざわざ自ら連絡を取ってくるあたり

やはり谷川俊太郎という男ただ者ではない。

言葉の響きに対する感度の高さというやつを、

客観的にランクづけするのは難しい。

だが谷川俊太郎は、詩人ならではの直感で

イケメン君の言葉に対する

感度の高さに何かただならないものを感じたのであろう。

子どもの書いた文章にどのよううに反応するかには、

その人の言葉に対する感度の高さが表れてしまうものなのだ。

そもそも言葉の響きに対する感度というものは、学校教育の場などで

意識的に鍛えられる機会がないために、大多数の大人の響きに対する感度

は子どもの頃で止まってしまっているものなのだ。

いかにして言葉に対する感度を高めるか?

私は週のうちの何時間かを

子供たちに読み書きを指導することに

費やしているが、

入室前の体験授業では

200文字程度の作文を

2〜3本書かせることになっている。

書き言葉というのは怖ろしいもので、

その程度の作文でもその時点で子供が

どのくらいの作文力があるか、

普段どの程度活字に親しんでいるかなどが

如実に表れてしまうものである。

だがそれはあくまでもその時点でということで

その後の育て方次第ではどうにでも変わるものである。

言葉に対する感度というものは

ある程度生まれ持ったものもあるが、

後天的に研ぎ澄ましていくこともできる。

心理学もまだまだ言葉の可能性の探求という点で

やりきれていないことがたくさんあるのである。

私たちは人類はまだまだ言葉の可能性を

汲み尽くしてはいない。

 

では小学生から中学生くらいの

言葉に対する感覚が新しい人たちの言語能力をどう育てるか?

その答のひとつの例を示した本が

このほど出版されたのでご紹介しておきたい。

 

ここから先はひらたく言えば宣伝です。

宣伝の嫌いな方は読み飛ばしてください。

 

『これで書く力がぐんぐんのびる』工藤順一+国語専科教室 合同出版

 

全国に言葉を教育するための

機関はたくさんありますが、

人間の言語能力の育成に対して

これほど真剣に取り組んでいるところは

なかなか他にないのではないかと思います。

 

子供と大人の言語能力を本気で育てようと

考えている人にとって

この本は最初のとっかかりに過ぎないのですが、

それでも十分に参考になるところはあると思います。

この本では私の担当は第5章ですが、

その中で紹介している詩の作成のための技法は

大人相手のワークショップでも活用しているものです。

 

「人類は言葉、とりわけ書き言葉の可能性を

十分に引き出し切れていない。

もし書き言葉の可能性を

もっと活用できるようになったら

人類はまったく新しい可能性の扉を

開くことになる」

というのが私の立場です。

 

言葉に関する感度の養成において

子供向け大人向けという切り分けは、

本質を見失わせる要因になりかねないものです。

したがってこの本が子供向けに書かれているというのも

あくまでも便宜的なものです。

 

いずれにせよ心理学を

より深く探求するためにも

精度の高いセンテンスを作るためにも

言葉に対する感度を高めるための

質の高い訓練が必要であることは

一貫して変わることのない基本条件です

 

                    (2007,6,8)



笑いの宅急便 第85便 ヒーリング・センテンスとは何か?その3

生命の響きへの情熱

井上陽水の作曲技法
精度の高いセンテンスを作成するために必要とされる資質とはどのようなものだろうか?

私がまだ中学生の頃だったと思う。

J−POP(当時はJ−POPという言葉はなく、井上陽水は
ニューミュージック界の旗手と見なされていた)のパイオニアと言える
井上陽水が、ラジオで自らの作曲技法の秘密について語っていたことがある。

聞き手はたしかムッシュかまやつ。

記憶を頼りに思い起こしてみるとその時の陽水氏の話の内容は確か次のようなものであった。

「例えば、まず“ド・レ・ミ”というメロディーが浮かぶとしますよね。
そうしたらこの“ド・レ・ミ”というメロディーにぴったりの言葉を見つけるわけですね。
するとどうも“ヤ・マ・ダ”という言葉がフィットしそうだとわかる」

(ここで聞き手のムッシュかまやつ氏は爆笑)

「で、次にこの“ヤ・マ・ダ”につながりそうな、メロディーを探すわけです。
そうやって短いメロディーができたら今度はさらにそれにつながっていきそうな言葉を探して・・・。
そんな風に少しずつ言葉とメロディーをつなげながら歌を作っていくんですね。僕の場合・・・」

さらに井上陽水氏は、名作『氷の世界』の中の“白い一日”という曲について
次のようにコメントしていた。

「この曲の出だしの“まっ白な”の「ま」の音は、フォーク界、ロック界で
未だ誰も到達したことのない、前人未踏のニュアンスを表現することに
成功しています」

決して授業で教わったことなんかじゃない

陽水巨匠は冗談めかして話していたが中学生だった私は、そのとき
「なるほど詩的表現においては、意味だけじゃなく
それ以上に言葉の響きが重要なんだな」と悟った次第である。
こうしたことは中学の国語の授業では決して教えてくれなかった。
陽水さんのラジオ番組を聞いていなければ、
私はこれほど基本的で重要なことを
ずっと理解しないままに育ってしまったかもしれない。

さすがにそのラジオ番組を聴かなかったとしても
言葉の意味に気持ちを奪われ、
響きをまったく無視するような人間に育つことはなかったとは思うが、
そのことを意識して理解しているのといないのとでは大きな違いがある。

中学から高校にかけて、私はその後の人生を左右するような重要なことを
すさまじい勢いで吸収していたが、それらは尾崎豊が歌ったように
「決して授業で教わったことなんかじゃない」のである。

少年時代の出会いというものは本当に人の人生を大きく左右する。
私が中学生くらいの子供の教育につい熱をあげてしまうのは、
この頃の体験とも関係しているのかもしれない。

ハーメルンの笛吹男?

私に大事なことを教えてくれた井上陽水というアーティストは音の響き、
とりわけ声と言葉の響きに対してきわめて敏感なシンガーである。
もちろん言葉の響きに鈍感では、詩など書けるはずもないのだが、
陽水の響きに対するこだわりには他の追随を許さない何かが感じられた。

陽水が高中正義とのジョイントコンサートで、
“傘がない”の出だしを歌い出した時の衝撃は今も忘れない。
ギターのイントロの後、♪トーカーイでは・・・♪
と聴き手の心臓を直撃するようなあの独特のテノールが
響き渡った時には、会場全体が動いたようだった。
声の響きだけでここまで人の意識をもっていくのか・・・。
ハーメルンの笛吹男か、この人は・・・。

もちろん声の響きで人の意識を遠いところまで連れていく芸を
持っているのは、陽水だけではない。

響きの巨匠たち

中学生の頃から忌野清志郎のボーカルにずっと心を惹かれていて、
大学生になって人気絶頂のRCサクセションのコンサートに行く機会を得た
自分は幸せだった。
憂歌団の木村がこともあろうに加山雄三の“君といつまでも”を
カバーしたのを耳にしたときの「何、これ」という感覚は忘れがたい。

桑田佳祐の響きに対する、感性にはいつも驚かされてきたし、
ミスチルの桜井君のボーカルに涙する女の子がいるのもよくわかる。

UAの野性味あふれるボーカルに備わった心の深い領域を揺さぶる歌声には
感応せずにいられないし、
カバー曲をまるで違ったものにしてしまう
ソットボッセのやる気のなさそうな歌い方には新鮮な驚きを感じる。
NOKKOやYUKIのハートフルな歌声には心を洗われるし、
DJ OZMAのあろうことかアントニオ猪木の
「炎のファイター」をサンプリングするガッツには脱帽ものである。

海外に目を転じると、ブライアン・フェリーのこの世のものとは思えない
官能的な世界をクリエイトする歌声や、
レナード・コーエンの哲学的で奥深い世界を演出する深みのある声の響き。
さらに、声ではないが、マイルス・デイビスやキース・ジャレットの演奏には、
間違いなく聞き手を別世界にいざなう魔力が備わっている。

優れたミュージシャンは、みな「響き」によって現実の世界とは異なる
別世界をクリエイトする能力を備えている。

私に「響き」の大切さを教えてくれたのは、こうしたミュージシャンたちである。
そこには人間が生きるということの根幹に関わる何かがある。

生命の響き

精度の高いセンテンスを作る際に必要とされるのは、
音楽に対して感応できる感覚である。
どれだけ心理学や象徴学に関する該博な知識を有していようとも、
響きに対する感受性がなければ、精度の高いセンテンスを作るのは難しい。
センテンスはあるレベルまでは、理論に基づいて作ることができるが、
ある領域を越えると理論を越えた何かが作用するからである。

生きたセンテンスを作るためには生命の響きを感じ取り
それと響き合う情熱が必要になってくる。
コンピューターに生きたセンテンスが作れないのはそのためである。
その意味でセンテンスを生み出す作業はひとつの技芸(アート)といえる。

 

                  (2007年5月11日)




笑いの宅急便  第84便・・・ヒーリング・センテンスとは何か?その2
あかねいろのセンテンス

センテンスの適合性
ヒーリング・センテンスというのは不思議なもので、

そのセンテンスに反応する要素を持たない人にとっては、

単なる言葉の羅列としてしか感じられない。

ところが特定のセンテンスと適合性のある人は時として

センテンスに対して劇的な反応を示すことがある。

センテンスの作成においては、詩的創造力よりも

この「適合性」を見極める能力の方が重要である。

適合性をみきわめる読解力、分析力、感覚力の

養成のためのノウハウについては、いずれ詳しく語る必要がありそうだが、

その前に特定のセンテンスがどのようなタイプの人に対して

効果をもたらすかについて探索していきたい。


センテンスに対する反応

「金色の朝日を浴びた少女は、

時の狭間に包まれ、

やわらかくほほえむ」

 

このセンテンスを受け取った女性から

数日後以下のようなメールが届いた。

 

「先生、いま仕事中なんですが、

めちゃめちゃ緊張状態にあって

かなり呼吸が浅くなっていました。

そこで先日いただいたセンテンスを

今ちょっとよんでみた瞬間

びっくりするぐらい呼吸が深くなりました!!

なんだこれ?!!?

びっくりする(>_<)!!!」


センテンスは、彼女のあせる気持ちを

やわらげるというニーズに合わせて作ったものだが

メールを読む限りでは

彼女はかなりセンテンスに対し

敏感に反応しているのがわかる。

これは彼女自身自分でも詩を書いたりしていて

かなり言葉に対して敏感なタイプであることと

無関係ではない。

では言葉に対してさほど鋭敏な感覚を持ち合わせない

タイプに対しては

ヒーリング・センテンスは無効なのだろうか?

そう結論づけるのはまだ早すぎる。

 

今はまだどういうタイプがどういう

センテンスに対して反応しやすいのかを

丹念にリサーチし検証していく段階である。

まず上のセンテンスに対して

敏感な反応を示した女性の特徴を挙げておきたい。

ここでは当人の許可を取って差し支えないと判断した情報を

掲載しておく。


響き」をかける


彼女に関する情報として血液型や、誕生時の星座なども

含まれているが、ここでは占いそのものの妥当性は問わない。

センテンスの創作にあたっては

作成者は基本的には占いの示す結果については

ニュートラルなスタンスを取ることが望ましい。

つまり作成者は占いによって示される

情報によって相手を「判断する」ことはしない。

その代わりそれらの情報も含めて受け手の全体と

もっともよく共鳴するセンテンスを紡ぎ出すように試みる。

 

ここで重要なことは占いによって示される結果が

あたっているかどうかではなくて、

センテンスの受け手が

自分の血液型や、誕生時の星座を

「知っている」ことなのである。

それは当人にとって自分に関する

情報としての意味を持つ。

 

センテンスの作り手はその情報を

受け手に「響きをかける」ために有効に活用するのである。

ちなみに「響きをかける」というのも、私の造語だが、

ヒーリング・センテンスの実践を表すのには

この言い回しが現時点では一番適合的である。

感受性の共有

センテンスの受け手の特徴を知ることは、

第三者にとっても意味を持つ。

特定のセンテンスによく反応する

人物の特徴を知ることは、その人と感受性を共有する

人を見つける際の手がかりになるからである。

読者の中で自分がセンテンスを贈られた人物と

何らかの特性を共有していると感じたら、

例に挙げたセンテンスが有効に

働く可能性がある。

 

あるいは、身の回りの知人に

彼女と類似する特性を備えている人を

見つけたら彼女に同じセンテンスをプレゼントして

あげてもいいかもしれない。

受け手に合わせてセンテンスを

書き替えて精度を上げることができれば

さらに有効ではあるが、

よほど詩的才能に恵まれていないかぎり

それを高い水準で行うのは難しい。

だがある程度の訓練を積めば

ほとんどの人にそれができるようになる。

前フリはこのくらいにして彼女の特徴を挙げてみたい。

 

25歳 OL

血液型 A型 牡羊座 

ユングのタイプ論でいう、内向性直観タイプ。

接客業に従事。若い女性相手の仕事をしている。

心理学、社会学、女性学をよく勉強しており、

学問的営為によってなし得ることも

その限界もよくわきまえている聡明な女性。

女性の本質を深く理解していて、

女性を美しくする仕事に生き甲斐を感じている。

鋭敏な感受性がこの仕事を続けていくうえでの

強みになっているが、時おり敏感過ぎる感覚を持て余し気味。

 

読者の中でここで挙げた諸条件のいくつかに、

あてはまる条件を備えている人は、

例に挙げたセンテンスに対して反応する可能性が高い。

 

しかしながら、彼女と同姓同名でないかぎり、

このセンテンスを贈られた当人ほど

敏感に反応することはまずあり得ない。

というのも、ヒーリング・センテンスは、

基本的にはそれを贈られる当人の

名前の響きと共鳴するようにチューニング

されているからである。

 

もちろん特定の個人に向けて調律された

「あせる気持ちをやわらげる」というニーズに

対して作られたセンテンスに対して

多くの人が共鳴することは可能性としては起こりうる。

 

だが、基本的にある程度の効果をもたらす

精度の高いセンテンスは、

特定の時期における特定の個人の

特定のニーズに対して与えられるものである。

 

これについては、わかりやすい例を挙げてみたい。

あかね色のセンテンス

ある男子大学生に例に挙げたセンテンスを読んでもらい感想を聞いた。

彼は「“時の狭間に包まれ”だけが浮き上がって見える」というので、そのフレーズを中心にそれ以外の部分は彼の「響き」に合わせてその場で彼のニーズに合わせた新しいセンテンスを作成した。

そのセンテンスについて、後にその学生は以下のような感想をメールで送ってくれた。

 

『“金色の〜”を読んだ際、私の目には、3行目の“時の狭間に包まれ”だけが浮かび、他の文はあまり映りませんでした。そして、センテンスを変形して頂き改めて読むと、読んだ瞬間、周囲の雑音が消え、意識が静寂に包まれました。どうしてこのような反応が起きるのか、このようなセンテンスを生み出せるのか不思議でなりません。』

 

ここで彼が触れているセンテンスは以下のようなものである。

 

「あかね色の夕日に映える一輪の花

 時の狭間に包まれ

 ひそやかに開く」

 

このセンテンスは、

目の前の大学生の

「響き」を感じ取りそれを楽譜ではなく

言葉で写し取ったものである。

私自身ずいぶん沢山の文章を

書き連ねてきたがこれまで

「あかね色」という言葉を用いたことがあったかどうか

思い出せない。

私にとっても何かを「あかね色」と表現することは

きわめて稀なことなのだ。

それは、私の目の前に座っていた若者の存在の

レアさ加減を表しているとも言える。

 

彼は私と直接話した時に

「センテンスを読んだ瞬間

周囲の音が消えて

違う世界に連れられたように感じました」

と伝えてくれた。

彼はこのセンテンスから

「他の文章ではあり得ない自分にフィットした感じ」

を受けたという。

おそるべし女の直感

詩的想像力に恵まれた人は、

センテンスを読んだだけで、

そのセンテンスを贈られた人がどういう

人物かある程度想像できるのはないだろうか。

とはいうものの知人の女性が

このセンテンスを耳にしただけで

「この人イケメン?」というリアクションを

示したのにはさすがにビックリした。

(彼女には、このセンテンスを贈られた

人物が男性であることとその男性の苗字までは

伝えてあった)

 

「どうしてわかったの?」と

尋ねると

「あかね色が似合うような人って

イケメンじゃないかと思ったの」とのこと。

 

女の直感恐るべしである。

こうした感度の高さは

センテンスの作成にあたっては

大いに役に立つ。

ちなみにこの大学生の特徴は以下のようなものである。

 

21歳。4月生まれ。牡羊座。血液型A型。

一橋大学商学部に在学中。専攻はマーケティング。

人からどう言われようと

断固として自分をイケメンとは認めていない。

バンカラな高校で生徒会長をやっていたため

男っぽい男という自己イメージを大事にしている。

硬派という自己イメージのために

高校時代は彼女がいることが恥ずかしくひた隠しにしていた。

スーパーサイエンス指定校で科学を学ぶも

理科系の学習に限界を感じ文科系に転科。

周囲と上手に自分を合わせられる頭の良さと

優れた適合性を備えている。

小学校5,6年の時には

「自分」に気持ちを集中するのを止め

ひたすら周囲に適合してきた。

それがあまりにもうまく機能しているために

自らを自分の本質から遠ざけてきたことに最近気がついた。

3年生になって就職について真剣に考えるようになり

内心では揺れる気持ちもあるが、

学業にバイトにと社会生活には

見事に適合している。

ちなみに彼の祖先は

歴史上の人物で

歴史の教科書に名前が載っている。

(将軍とかではなく、キリスト教に関係する人物)

傍から見ているかぎり

彼はバンカラな男とはほど遠い。

だいたい愛用の筆記用具はクロスとラミー、

愛用の服のブランドはDIOR hommeとato

などというバンカラな男なんて聞いたこともない。

当人の自己イメージはバンカラ男でも

実際の彼は鋭敏な美的感受性を備えた

イケメン君である。

 

ちなみに彼のために作ったこのセンテンスは

「自分の本質に気づくことで

焦燥感から解放され落ち着きを取り戻す」

というニーズにフィットしている。

 

読者の周囲に

自分はバンカラな男だという

自己イメージを持ち、

実は、鋭敏な美的感受性を備え、

先祖が歴史の教科書に載っている

イケメンの若者がいて、就職先に悩んでいたら

このセンテンスを贈ってあげるといいだろう。

(いないかそんな奴) (2007,5,8)



笑いの宅急便  第83便・・・
ヒーリング・センテンス
とは何か?
その1

ヒーリング・センテンスの実践

「金色の朝日を浴びた少女は、

時の狭間に包まれ、

やわらかくほほえむ」

 

これは2ヶ月ほど前に

私がある20代のOLのために

処方したヒーリング・センテンスである。

彼女はとても鋭敏な感受性を備えていて

緊張しやすく、仕事中に呼吸が浅くなり

マイペースで仕事をこなすことができずに

苦労していた。

このセンテンスは、彼女のあせる気持ちを

やわらげるというニーズに

合わせて作成したものである。

彼女はセンテンスを受け取ったあと

例によって仕事中にテンションがあがった際

試しにこのセンテンスを読んでみたという。

すると一瞬で気持ちが落ち着き

呼吸がすーっと深くなったので、

「何これ?」とびっくりしたという。

彼女は自分でも詩を書いているため、

このセンテンスが通常の詩的表現とは異なるある種

「プログラムされた」ものであることを感じたようである。

 

プログラムされたものであるような

印象を与えてしまうのは、作成者の

創作技術が未熟なためだが、

現段階では効果があればよしとしておこうと思う。

作品としての完成度を求めて

推敲することも考えたが

リラクゼーション効果の方を優先させて

このセンテンスは

当分そのまま使ってもらうことにした。

 

彼女はこのセンテンスを

携帯に入力し、

仕事中にテンションが上がりすぎそうに

なった時に読むようにしているそうである。

「何これ?」と言われて名前がないのも

しまらないので、とりあえずヒーリング・センテンス

というネーミングを考えた。

私個人はヒーリングという言葉はそれほど

好きな言葉ではないのだが、

一般にはわかりやすいかもしれない。

別にヒーリング的なテーマに限らず

様々な感情的ニーズに合わせた

センテンスを創ることが可能である。

ちなみに例に挙げたセンテンスは、

彼女と感性を共有する人に対しては、

多少の効果を期待できなくもない。

 

とはいうものの上のセンテンスはあくまでも

彼女個人に合わせて調律してあるため、

彼女以外の人に対しての効果はあったとしても

微弱なものになってしまう可能性が高い。

 

ヒーリング・センテンスとは

特定の個人の特定のニーズに対して

作られた完全オーダーメイドの詩のようなものである。

 

現在私はこのセンテンスの作り方の

フォーマット化を進めるとともに

講座の中でも少しづつその作成技術に

触れるようになってきている。

 

講座については、

今のところ5月27日と

7月29日に開催の予定があります。

ご関心がおありの方は

講座を主催してくださる

 オフィスBOAに

問い合わせてみてください。

オフィスBOAの連絡先は

boa_room@kitanet.ne.jpです。

                     (2007、5、7)


笑いの宅急便  第82便・・・大阪ってこんなにやさしい街だったんだ  パート2  

大阪の女性たち

大阪の女性というのは、情が深いのだろうか?おそらくそうなのだろう。だが深く接してみないとそのことを感じきることはできない。

母を亡くした後、何人もの友人たちが文句も言わず朝まで呑みにつきあってくれた。友人の中には横浜出身の人や山梨出身の人もいた。

だがどういうわけか大阪出身の女性たちと話す機会がやけに多かった。
彼女たちの気遣いは表面上はあっさりしているが実は繊細な気配りをしているという点で共通していた。そしてそのこと自体を相手に感じさせないようなスマートな印象をもたらすものだった。

そんな彼女たちと言葉を交わす中で私は自分の中で満たされることのなかった何かが満たされ癒されるのを感じた。

それは彼女たちの備えている人間の本質に対する特有の洞察力のせいもあるかもしれない。

おかげで私はあまりにもあたりまえの事実を新たに実感することができた。

言葉には力がある。

それは間違いない。

人に癒しを与え安らぎを与え幸福に気づかせる言葉の力・・・。

だがそれは、固有の個人が固有の関係性の中で発するから宿るものなのだろうか?

彼女たちが僕のことをよく理解しているから?

それとも彼女たちが与えてくれた言葉の力はもっと普遍的なものになり得るのだろうか?

「なり得る」と私は考える。

以前からそう考えていたが、大阪の人と街はそのことを私に改めて確信させてくれた。

 

大阪の街のエネルギー

私にとって大阪の町並みは意外にも人間に対する「情」を湧かせてくれる何かに満ちていた。そんな街のパワーをもらって私は以前からずっとつきあいのあるプロ・コーチのグループのメンバーのことを思い出した。

メンバーはそれぞれ教育者や、アスリートのコーチや、企業のコンサルタントなどとして活躍している。もともとは、プロ・コーチのための心理学の講座の開催の依頼を受けたのをきっかけに知り合ったのだが、ここしばらく彼らのための講座は中断したままになっていた。

彼らの何人かとは個人的に話をすることはあったが、グループとしてはかなり長い間集まっていない。その埋め合わせの意味もあって、私はメンバー一人一人のためにヒーリング・センテンスを贈ることにした。


ヒーリング・センテンス

ヒーリング・センテンスとは私が考え出した造語だが、(大阪に行くちょっと前に友人からあることを打ち明けられた際にセンテンスを贈った時に使ったのが最初・・・かな?)要は個人の感覚をピンポイントで刺激するための短いセンテンスである。

センテンスは例えば「星野さんが関係性の中で作り出した未完了の思いを溶かし流す」とか、「さやかちゃんが失恋のショックから立ち直り未来に向かって前向きに歩き出すことをサポートする」といった個人の固有のニーズに対して作られる。

精度の高い効果的なセンテンスを作るためには、心理学的知識や経験、象徴学や色彩心理学などについての知識や感覚が必要になる。

このところ講座の中などでもこのセンテンスの作り方について触れるようになったが、実はこのセンテンスの作成の技術についてはまだほとんどまとまったものを書いていない。

 

この手法がなんとか体系的なものにまとまり始めたのは、まだ最近のことなのでそれも無理からぬ話ではあるのだが、それ以前に感覚的要素の占める割合の高い技術について理論化するのは本当に難しい。それでもこの手法を誰もが近づきやすいものにするためにはある程度の理論化は必要だろう。

ちなみにこの時大阪で作ったセンテンスを受け取ったコーチたちの反応は思った以上に敏感なものであった。

これは彼らが日頃、思考力だけでなく感覚力を使う仕事をしているためもある。彼らの多くはコーチの世界でも指導者的立場にあるということもあって、当人たちが自覚している以上に、言葉に対する感覚や言葉の刺激に対して自分の体がどう反応するかといったことに敏感になっているためであろう。そういう人たちは、日本ではまだまだ例外的な存在である。

だが少し視点を変えると、言葉の持つ力に対する理解という点では日本人は世界でもトップクラスの民族であるとも言える。

例えば日本には1千万人もの俳句の愛好者がいるという。日本人はもともと詩心のある民族なのだ。詩心があるということは、感覚に働きかけ意識を変容させる言葉の持つ不思議な力を少なくとも感覚的には理解しているということでもある。

その意味で、センテンスを用いる手法は、日本人にとって決して馴染みづらいものではないはずである。センテンスの意味や効果を理解し、誰かのためにヒーリング・センテンスを作れる人が増えることを期待して、今後この手法の理論化に取り組んでみたい。

                                (2007年5月2日)



笑いの宅急便  第81便・・・
大阪ってこんなにやさしい街だったんだ  パート1

笑いの聖地への巡礼

日本で笑いを探求する限りは避けては通れない笑いの聖地。笑いを愛する者にとって大阪の地に足を踏み入れることは、特別な意味を持つ。幸運にも先日、大阪の街を巡礼する機会に恵まれた。そこで明らかになったのは、自分の大阪の笑いに対するイメージがかなり偏ったものだったということである。

大阪在住の知人がテレビでやっている漫才の笑いが大阪の笑いを代表しているわけではないということを教えてくれた。

大阪の笑いは楽しい笑いだという。他人のあげ足を取って、笑うような笑いは大阪の住人の笑いではない。大阪人は人を落とすような笑いの取り方はしないのだという。

私もそれは本当だと思う。

街を歩いている人の雰囲気、表情、街に漂う空気・・・。

それらがすべて優しく私にとっては妙に懐かしいものでもあった。

「先生にはミナミが合ってると思うよ。懐かしい感じするでしょ」

大阪の知人が言ってくれた。

大阪の街を歩いている間、何度か人が言い争いをしている光景を見かけた。それは東京ではこの頃あまり見かけなくなった光景でもある。

ぼーっとして歩いていると、その辺のあんちゃんが「こら、おまえどこから湧きよった?どこ見て歩いてけつかんねん?」(これはイメージです。本当の大阪人はこんなからみ方はしません。たぶん・・・)と言いながらからんで来そうな感じも漂っていた。だが、それも含めて優しいのだ。

大阪の土地に根付いた笑いの感覚は、自分の理想とする笑いの感覚にきわめて近いものであった。

この街に住む人たちは、人間の哀しさを知っている。悲しさではなくて、哀しさ・・・ですね。だから優しくなれるし笑いの質も高い。

笑いの質は人間の奥行きを表す。

時として深みのある人の笑いは、哀しみを宿すものである。

哀しみのない笑いは時として浅い。

かすかに宿る哀しみの色合いが

笑いに深みを与えてくれる。

大阪という街・・・とりわけミナミ界隈に漂う人々の情の深さ、哀感、そして笑い・・・。そんな空気を全身の細胞で感じ取って私は大阪という街が好きになった。

 

そしてこの地で、私は思わぬ拾いものをした。それについてはまた次号に。

                                (2007/04/26)

 

 

 




笑いの宅急便 第80便・・・好きです正直なお姉さま

好きです、正直なお姉さま その1
 
携帯電話の料金プランってどうしてあんなに複雑なんだろう。まるで顧客をわざと混乱させようとしているかのような・・・。
その日、携帯の料金プラン変更のためにソフトバンクの営業所窓口に出向いた私のために窓口のお姉さんは様々なプランの内容を説明してくれていた。
「研修生」という名札をつけた彼女は一生懸命説明してくれているのだが、複雑なプランの説明を延々と聞いているうちに私は何やらエイリアンと話をしているような気分になり意識が朦朧としてきた。

ところがその時お姉さんの口から飛び出した思いがけないフレーズのおかげで私の意識は一瞬にして覚醒した。
「こちらのauのプランでは・・・あ・・・失礼しました」
「エ・・・?」
「イエ・・・」
 
「あの・・・もしかしてこれってauのプランをそのまんまパクッたものだったりして・・・」
「え・・・ええ、イエ・・ハイ・・・まあ・・・」
「・・・・」
「・・・・」

「あの・・・そのプランにしてもらっていいですか?」
「はい・・・ありがとうございます」
 
窓口のお姉さんは、漫画で言えばほっぺたのあたりに汗の粒を浮かべたような表情で手続きをしてくれました。

  
好きです、正直なお姉さま  その2
 
ソフトバンク携帯とiPodがセットで販売されていた時のこと。
見ると格安の値段。
びっくりして料金表を見せてもらったらそのからくりが理解できて思わず
営業店のお姉さんに言ってしまった。
「これだと結局、iPodを割賦で購入するようなものですね。(しかも割高かも)」
「そ・・・そうですね・・・」
お姉さんの表情が漫画で言えば、額に斜線が入ったような感じに変わったのを見て私は内心(やっちゃった)と思った。
「そりゃどうも・・・(何がドウモだ)」
私は曖昧な挨拶をして額に斜線が入ったままのお姉さんのもとを足早に立ち去ったのであった。
 
ごめんなさいね。別にからかうつもりはなかったんです。
でも正直っていいですね。

                                     (2007,3,20)
  
笑いの宅急便 第79便・・・出てます?脳内麻薬  

笑いとクリティカル・シンキング

クリティカル・シンキングは、もともと心理学の一分野として発生したと言われているが、心理学に限らず様々な分野において、今後ますます重要性を増していくように思える。

クリティカル・シンキングの発想の真髄は、「視点を固定させずに対象をあらゆる角度から考え抜く」態度にあるように思われる。クリティカル・シンキングは、自明の前提、常識を疑うことからスタートする。主観的な解釈に流れがちな心理学の体系に1本の筋を通すためには、こうした態度はとても大切である。

この頃、自分の視点はひとつの立場、ひとつの視点に固定しすぎてはいないだろうか?そう感じたときは、クリティカル・シンキング的アプローチを思い出してみるといい。○○シンキングと言うと、いかにも難しい学問のように聞こえてしまうが、要はいかに自分の思い込みをはずして、柔軟な態度で世界と接するかということである。これを学問として捉えてしまうとかえって難しくなる。

私の場合は子どもと接している際に、自然とこれがやれることがある。子どもが面白いと言うファンタジーや小説を自分が読んでみて面白さを発見できるかどうか?子どものバカ話に対し、いかにリアクションを取りながら、無理なく楽しく学ぶ場を提供するか?自分の発想が固定化してくるとこれが出来なくなってくるのである。子どもとの関わりの場は、クリティカル・シンキングの最高のトレーニングの場となり得るのである。

クリティカル・シンキング的態度は奇しくも何の変哲もないものの中に「笑い」を見つけだそうとする態度と重なってくるのである。ひとつの固定した視点から見ていただけではおもしろくもなんともなかったものが、視点をずらしたり、切り口を変えたりして観察しているうちに、それがネタになったりする。どうも、人間の脳というやつは、特定の対象に対して多様な角度から検討を重ねているうちにある種の麻薬物質を分泌するらしい。そうなってくると、見るもの聞くものすべて新鮮に感じられてくる。このような状態は、子どもと一緒になって(あるいは子どもの気持ちになりきって)自分の思い込みを取り払い何事かを追求している際に、自然に発生するようである。

このところ私の関心の向いている分野が子どもとの関わりだというのは、もちろん偶然ではない。私は「教育」という言葉にはあまりエキサイトしない。脳内麻薬が分泌されない感じがするのである。だが、子どもと一緒に行うクリティカル・シンキングは、間違いなく大人の脳にも麻薬物質を作り出してくれ、適度なナチュラル・ハイを生み出してくれる。

私の経験から言えば、この知的興奮を経験した生徒は確実に伸びる。

果たして今の教育現場で、この知的興奮状態はどの程度発生しているのであろうか?

先日、国語専科教室の「考える教室」で、ある生徒が、アインシュタインについてのれポートを書いてくれた際も私の脳は適度な量の麻薬を分泌した。(*このレポートはいずれアップします。)

勉強って面白い。考えるって面白い。そんな風に子どもたちが感じてくれれば、という願いを込めて作られたのが「考える教室」である。


親子のための文章トレーニグのための書籍の打ち合わせの際、
「出てます?脳内麻薬」というコピーを口にしたら編集者から
「それはちょっと・・・」とドン引きされてしまった。



                      (2007,2,28)



   


笑いの宅急便 第78便 
心脳コントロール社会 パート10
ヌルヌル疑惑騒動

昨年の大晦日に起きたヌルヌル騒動が、まだ尾を引いている。 いまや伝説となった、ホイス・グレイシー戦、相手の腕を脱臼させてしまったヘンゾ・グレイシー戦。試合には敗れたものの超一流のストライカー相手に、間合いのコントロールの上手さを見せつけたミルコ・クロコップ戦。それらすべてを会場で観戦したほどの桜庭ファンの私としては、一連の出来事をつい桜庭目線で見てしまう。だが、もはや事態は桜庭や秋山といった個人の選手同士のやりとりの範疇では語りきれないところまで進展してしまった。

すっごい滑るよ

上の文章を読んで理解できない方。2006年の大晦日には何をしていましたか?

私は高円寺のレスカフェで、知り合いのバーテンダー郷ちゃん夫妻と共に、格闘技を観戦しておりました。

事件が起きたのはメインイベントでの出来事です。その時は、桜庭選手に何か尋常でない事態が起きたのは理解できたのですが、それ以上のことはわかりませんでした。放送は秋山の勝利で終了し、私たちは釈然としない気分のままで、2007年を迎えたのでした。

「これは絶対に何かある」

桜庭選手の「すっごい滑るよ!」という叫びに、通常の格闘技の興行の範囲を越えた何かとんでもない事態が勃発していたことを感じとった人は少なくないはずです。

ネットとマスメディアの温度差

新聞やテレビといった媒体によっては、この件について自分の知りたい情報が手に入れられないであろうことは、察しがついていました。現代という時代にインターネットがあることをこれほど頼もしく感じたこともありません。ネットで流れている情報がすべて信用のおけるものではありませんが、それでもネットは、一般のマスコミでは手に入れられない貴重な情報を提供してくれるツールです。そして今回の件に関連するネットの中の状況は・・・それはもうすさまじいことになっておりました。

そして・・・。多少なりともスポーツ界、格闘技界の動向に関心のある方ならご承知のとおり、秋山選手は失格となりました。しかし・・・。何やらスッキリしない。何かまだヌルヌルした感じがぬぐえないのはなぜ?このすっきりしない感じの根源をたどっていくと公式発表や報道というもののリアリティーのなさという問題に行き着くことがわかります。

意識の地滑り現象

ネットとマスメディアによって発信される情報を比較してみて、まず驚かされるのは、一般マスコミとネットとの間の「温度差」です。特定のトピックに関してテレビや新聞しか見ない人たちには、この温度差という現象はわかりにくいと思いますが、この温度差を肌で感じている者にとっては、マスメディアを通して伝えられる情報には、しばしば頭からつんのめるくらい思いっきり滑らされることがあります。2006年の締めくくりに発生したオイルショック騒動は、これまでテレビで放送されていた事実を信じ込んでいた視聴者の意識に地すべりを引き起こし、マスメディアによって発信される情報の怪しさを視聴者が理解するうえで大きな役割りを果たしたといえます。

同時代的には、「あるある」や不二家の不祥事の問題が一般マスコミを騒がせていますが、私の実感に即して言えば、「あるある」よりも「ヌルヌル」から派生した一連の現象の方がはるかに複雑で大きなテーマをはらんでいるように思えます。「あるある」がいわゆるテレビ局によるやらせの問題に収斂させられるのに対し、「ヌルヌル」は秋山という選手個人の反則行為として片付けきれない様々なテーマを内包しているように思えるからです。格闘技に関心のない方には申し訳ないのですが、今日は少しこの切り口から現代におけるマスメディアの直面している問題について語りたいと思います。

2007年のオイルショック

伝聞によると、秋山選手は試合直前にビンを丸々1本使いきるほどの量のクリームを体に塗っていたという。事が明るみに出ると「ルール違反とは認識していなかった」と答えたが、これはちょっと苦しすぎる。多くの人が秋山のこの言葉を聞いて思いっきりつんのめったことと思う。ところがその苦しすぎる言い訳を主催者側があっさりと認めてしまう。事件から1月近くが経過するのに、その事実を見聞きした人々の意識にヌメヌメした感触が残されたままになっている理由のひとつがこのあまりに不自然な「公式発表」にある。

実は、リングに上がる選手がオイルを塗るというのは格闘技の世界では反則の常套手段である。もしかして桜庭選手も多少の量のオイルを塗った相手となら対戦の経験があるかもしれない。しかし、今回のケースにおいては滑り方が異常だったため、試合にならないと判断し試合の途中で抗議をしようとした。ところが、桜庭選手が異常事態に対し抗議をしていることを察知した秋山選手は、突如狂ったようにラッシュする。そのラッシュの仕方に競技としての格闘技の範囲を越えた何かを感じた人も少なくないようである。この時点で、秋山選手が視聴者の意識に呼び起こした反応も騒動が想像以上に拡大した理由のひとつである。

ネット社会の世論とは?

秋山が公式発表の場で「桜庭選手の寝技を警戒して、悪いとは思いつつもつい塗ってしまいました。ちょっと量が多すぎたのが、今回の失敗でした」とでも言っておけば印象は随分違っていたはずである。だが公式発表においてはこの件は秋山のルールに対する認識不足による過失として処理されようとしている。すっきりしない感じをぬぐいきれないファンは、なおも追及を続けている。こうしたファンの活動もネットという媒体に支えられながら展開しているようである。

騒動が本格化する前の初期の段階での運営サイドの最大の誤りは「マスメディアの側の人間」と「ネット社会の住人」という古い図式を捨てられなかったことにある。運営サイドの広報は、当初オイルショックに抗議するファンの声を「2ちゃんねらーが騒いでいるだけ」と切り捨てていたという。この時代感覚の欠如も、また騒動を必要以上に拡大させてしまった要因のひとつである。インターネットの普及が、社会の何をどう変えたのか?今は、その認識が社会全体に浸透する過渡的な状況にある。今後、テレビや新聞や雑誌媒体というメディアに加え、ネットにおける人々の声が世論を形成し、時代のうねりを生み出していく度合いは増す一方であろう。そういった過渡的な時期に起きたオイルショック騒動はネットでの動きが先行し、それをマスコミが後追いする形で展開したまさに時代を象徴する事件である。

サクの笑顔

大晦日の試合で印象に残っているのは試合開始の直前、秋山と向かい合った桜庭がうれしそうにニッコリと笑うその表情である。その表情は見ている者に
「この人本当に格闘技が好きなんだなあ」と思わせてくれ、サクがこの試合を本当に楽しみにしてコンディションを作ってきたのを感じさせてくれるのに十分な素敵な笑顔だった。
運営サイドの最大のあやまりは、桜庭選手の格闘技に対する愛情の深さに共鳴する人々の心情を理解していなかった点にある。何であれ自分が関わっているジャンルに対する愛情を持っている人なら理解できるはずの感覚を備えた人々。そういう人たちが格闘技を愛するサクの純粋な笑顔を踏みにじるような行為を目撃したら何を感じ、どう行動するか?

結果として今回、サクを救ったのは、彼の格闘技に対する愛情の深さとそれに共鳴する数多くのファンの声であった。
一方の秋山選手はどうなのだろう?彼は本当に柔道が好きなのだろうか?格闘技が好きなのだろうか?運営サイドや放送局はどうだろうか?彼らは本当にスポーツが、格闘技が好きなのだろうか?それとも格闘技は何かを実現するための手段に過ぎないのだろうか?

すっごく滑る状況で滑らないために
この件の直接の被害者であるサクは、いちはやく秋山の仕掛けた油地獄から脱出した。それは彼の格闘技に対する愛情の深さに負うところが大きい。一方、秋山の仕掛けた油地獄に今まさにからみとられている人たちもいる。大会を主催した運営サイド、現場責任者の谷川氏、秋山のセコンド陣、大会を放送した放送局、さらにはスポンサー企業から投資家までもが油地獄にからみとられ、新年早々あちこちで滑りまくっている。一人の格闘家が仕掛けた油地獄がこれからどれほどの組織やどれほどの数の人々を滑らせるかはちょっと予測がつけられないほどである。

それにしても不二家のクリームといい秋山のクリームといい、「あるある」といい、
「ヌルヌル」といい、2007年はのっけから滑りまくりである。

この滑りまくり地獄から脱出するための鍵はサクが示してくれたように思う。それは言うまでもなく自分が関わっているジャンルに対する愛情の深さである。一連の滑りまくり騒動がわれわれに示してくれたのは、自分が関わっているジャンルに対する愛情があれば滑らなくて済むところを、愛情の欠如ゆえに足元を救われることがあるというシンプルな事実である。これは伝統ある大企業とて例外ではない。

「すっごい滑るよ!」

この言葉は、自分の関わっているジャンルに対する愛情を見失いがちな人たち全員に対して発せられたもののように思えてならない。

教訓
どんなに注意していても滑るときは滑る。すっごい滑るのだ。
その時、自分が関わってきたジャンルへの愛情の深さが測られる。
           

                           (2007,1,25)


笑いの宅急便 第77便 
 心脳コントロール社会 パート9
とんねるずと小泉前首相 後編

ジョークによるリサーチ
私の心理学の師匠にあたるジェームズ・ファディマン博士は、講演の際に巧みにジョークを交えながら話をするのを常としていた。実際彼は素晴らしいユーモア感覚の持ち主だったが、当然のことながら笑いを取ることは彼の最終目的ではなかった。
お笑い芸人なら笑いを取ることがとりあえずのゴールとなるが、彼のねらいは別のところにあった。彼は聴衆がどのレベルのジョークにもっともよく反応するかを測りながらその日の聴衆の質を判定していたのだ。そしてその日の聴衆のレベルをリサーチしつつ講演の内容を最も効果的に伝える方法を考えながら講演していたのである。人種の坩堝のアメリカにおいて、彼が知りたいのはその日の聴衆が共有しやすい文脈であった。心理学者でありビジネスコンサルタントでもある彼にとって、笑いを取る事は聴衆が共有できる文脈を見つけ、自分の仕事を効果的に進めるための下ごしらえのようなものだった。
 
重要なことは次の警句に凝縮できる。
 
「より多くの人間が共有できる文脈」
それがわかれば効果的に仕事ができる。
 
ファディマン博士は笑いを、その日の聴衆がもっとも共有しやすい文脈を見つけ出すための入り口として使用していたのだ。こうした態度はある意味人類にとっての「聖なる現象」である笑いに対し失礼な態度ともいえるが、笑いをビジネスの生命線と捉えていたという意味で、笑いに対して真摯な態度とも言える。
笑いを笑うものは笑いに笑われることを知った者の態度であった。
 
販売戦略に必要な文脈
スピーディーに変化する現代の日本は世代を越えた共通の体験が持ちにくい時代である。21歳の女性と23歳の女性とではもう共有できる風景が変わってしまっている。流行していたファッション、化粧、流行りの音楽、日常を彩るアイテム・・・。すべてが急激に変化するこの時代により多くの人々が共有できる文脈を見つけ出すのは至難の技である。マーケティング戦略を立てる側は、20代女性、30代女性といった大雑把なくくりではなく、もっと細分化された顧客層を想定したうえで販売戦略を練ることを求められる。
 
そんな時代に、国民の過半数以上が共通に体験している文脈が見つけられれば、政治家もビジネスマンも仕事がしやすくなろうと言うものである。だが今の日本で、一国の国民の半数に近い層が織り込み済みの文脈などというものを見つけられたらほとんど奇跡である。
ところがそれがあるのである。
過半数どころか9割以上と思える国民が織り込み済みのものすごいやつが・・・。
 
日本国民に共通の文脈
その答えをしりたければ、自分自身が15歳になるまでどこで何をしていたか、させられていたかを思い出してみればよい。
ほとんどの大人たちは社会に出てしまうと学校教育の現場で何を体験したか、
体験させられたのかを思い起こすことはない。
だが、小学校での6年間、中学校での3年間。高校に進学していれば、さらに3年間。
感覚が鋭敏なこの時期の12年間にも及ぶ体験が、成人した後の物事の理解の仕方や行動様式に及ぼす影響は計り知れない。現代日本人の行動様式を理解するうえで、学校教育の影響はどんなに高く見積もっても高過ぎるということはないくらいの強度を誇っている。
 
小泉マジックを支える共通体験
では、それが小泉前首相のプレゼンの手法とどう関わってくるのだろうか?
小泉マジックのからくりを明晰に理解するために、もう一度小泉前首相のプレゼンの特徴を思い出してみよう。
 
小泉前首相が頻繁に駆使したのは、
1、情報の背景については詳しく説明せず
2、情報を細切れにして与えておき
3、二者択一の選択肢を提示し
4、聞き手にその選択肢以外の選択肢を考えるいとまを与えず
5、その選択肢の中から答えを選ばせようとする
という手法である。
 
ここまでくれば賢明な読者はお気づきであろう。
この思考プロセスは日本人のほとんど全員が何度も繰り返し通過しているはずである。
いくつかの選択肢を与えられ、その選択肢以外の選択肢を考えるいとまを与えられない実体験とは・・・。
そう・・・。日本人ならほとんど誰もが経験したはずの、学校教育の現場で頻繁に体験したテストの選択問題なのである。
 
脳内に形成された回路
長年にわたり選択問題を繰り返し体験させられた日本人の脳内には、選択肢が現れた背景を筋道立てて深く考える前に、与えられた選択肢の中から答えを選ぶという設定に反応しやすい回路が形成されているようである。
一流のアスリートでさえ、一度ついた癖を修正するには相当の努力を必要とするという。
現代の日本人が、選択肢が与えられた際にその背景をじっくりと考えることをせず、与えられたもの以外の選択肢を自ら考えることもしないというのはある意味無理からぬことなのだ。
 
「その様子は目の前にえさを出されると思わずついばんでしまうニワトリのようであった」
と未来の歴史教科書に書き記されるかもしれない。
 
メディア・リテラシー
「閣下、国民が閣下の言葉の背景を読んだらどうしますか?」
「大丈夫、わが民は背景は読まないようにしっかり『教育』されておる」
 
というような会話がいつかどこかの国で交わされたかどうかは
定かではない。実際のところ文部科学省は小泉政権の後押しをするために
何年もかけて国民の脳内のインフラを整備したわけではない。
 
だが、有能な心理学者なら、不特定多数の人間にアプローチする場合
使用可能な共通の文脈を何とかして見つけ出し、それをメディア戦略のために活用する。
かくして学校教育の現場での実体験は、世代を越えて
侮りがたい影響力を持つ共通の文脈となりうるのである。
 
もし、小泉氏がメディア戦略担当のブレーンからの
アドバイスなしに自らの直感に基づいて二進法アルゴリズムを駆使していたのだとしたら、
小泉前首相自身が 他の日本人の政治家にはない才覚を備えた人物だということである。
 
 
教育の再生のために
教育の再生が叫ばれている現在、再生を叫ぶ側の立場にいる人たち自身が教育によって
どのような条件づけを受けているかに対し無自覚であるようでは教育の再生は難しい。
だが現実には教育に携わる人々の中で自分たちが教育から受けた条件づけを、行動主義心理学的な視点から十分に相対化出来ているような人物は皆無に等しいはずである。
それが教育の再生に苦しむニッポンの現状なのである。
真の教育の再生のためには、教育の再生を目指す人たち自身が、
自分たちが教育現場で何を得、何を失ったのかをきちんと意識化する必要がある。
そこを通って初めて人は、教育の再生について語りだすことができるのである。
 
今後、日本国民が育むべきは、行動主義心理学がその発想の基盤とした、
「刺激」と「反応」に還元されることのない真の読解力、思考力なのである。

                            (2006,12,16)
 
 
 

笑いの宅急便 第76便  心脳コントロール社会 パート8
とんねるずと小泉前首相 前編

少し前のテレビのニュース番組で年配のコメンテーターが、「小泉劇場にノセられたと感じている人は多いのではないか」という趣旨の発言をしていたが、情報も判断力も備わっているはずの大人の発言としては少々物足りない印象はぬぐえなかった。

番組の中での限られた時間内での発言のためもあるかと思うがノセられたと思うのなら、まずなぜノセられたのかを明確に分析する必要がある。そのうえで同じ手法にノセられないための心構え・・・というよりは心理的テクニックと、新しい選択の可能性を示すことが大人のコメンテーターに期待される役割である。これからのコメンテーターは、そのくらいの芸がないと生き残っていけなくなるかもしれない。

ということで、今号のテーマは、明日のコメンテーターを目指す大人のための心理学講座である。

小泉前首相のプレゼンのやり方についてよく指摘されるのが、情報を細切れにして二者択一の選択肢を用意して聞き手に示すいわゆる二進法アルゴリズムの手法である。

簡単に言えば「郵政民営化YESかNOか」「構造改革YESかNOか」「官か民か」といったわかりやすい二者択一のメッセージを連呼することで、聞き手の側が自分で選んでいるつもりで実は「選ばされてしまう」という心理学的手法である。

こうした手法は心理学の分野では古典的なやり方でたとえば、催眠誘導の際の口上に、「あなたはこれから日常の意識とは異なる深いトランス状態に入っていきますが、このトランス状態が浅く感じられる場合もあります」というものがある。誘導される側には、浅く入るか深く入るかの選択肢は与えられてもトランスに入らないという選択肢は与えられない

小森陽一教授は、小泉前首相の用いた聞き手に二つの選択肢を与える手法がなぜ有効なのかを、フロイト的な深層心理学的な切り口からの精緻に分析している。深層心理学を専門とする私も、基本的にはこの切り口からの読解に同意するが、どうも日本国民は、こうした手法に特に弱い民族のように思われる。もちろん DNAの関係で遺伝学的に弱いということではなくもっと文化的な理由からである。

深層心理学的分析だけでは解析不能なこの謎を解き明かす鍵を握っているのが、とんねるずの初期の芸風と小泉首相のプレゼンの手法の共通点である。

とんねるずの初期の笑いは、学校の現場でだれもが目にする光景を題材にしたものが多かった。
「朝礼の貧血」「中学生が修学旅行のおみやげに買ってくる、西陣織の財布」「登山の記念に意味もなく木刀を買うやつ」「プールの碁石拾いでしばらく浮かんで来ないと思ったら碁石を口にくわえて浮かんでくるやつ」などなどなど。

ビートたけしにも青春ドラマにありがちな、仲間とともに夕日に向かって走るシーンを笑いのめすという学園ものの系譜を継ぐ笑い芸はある。しかしビートたけしのギャグは実体験ではなく、学園ものにありがちな設定に対して切り込んだものである。友人同士の揉め事が解消した後、海をバックにさっきまでいがみあっていた仲間たちと夕日に向かってダッシュしたという実体験を持つ人はそう多くはいないはずである。
つまりビートたけしが、笑いを発動させるためのプラットフォーム(聞き手に共通する文脈)として選んだのは学校現場を巡る実体験ではなく、聞き手の意識に巣食う非現実的な青春のイメージであった。

それに対してとんねるずは、一億総中流幻想が生きていた時代ののどかな学校生活で、誰もが実際に体験しがちなシーンをベースに独自の芸域を切り開いた。ビートたけしの青春のイメージを標的にしたギャグとの違いは、とんねるずの芸が聞き手の実体験と重なる文脈を舞台にしていたという点にある。

人が思わず笑ってしまうとき、脳内で何らかの化学反応及び電気的反応が起きているわけであるが、その触媒となるのが、とんねるずの場合学校現場における実体験だったということである。実はとんねるずの初期の芸風と小泉前首相のプレゼンの手法を結びつける鍵が、この「学校生活での実体験」という現役の日本人ならほとんど誰もが味わったはずの共通の文脈なのである。

では小泉前首相は、この文脈をどのように活用したのだろうか?

                          後編につづく(2006,12,8)
                                       



笑いの宅急便75便   心脳コントロール社会 パート 7
いまどきの新聞の楽しみ方

特定のトピックについての地方の新聞の社説が簡単に読めるのは、インターネットの発達のおかげで私たち(民間人という意味です)が享受できるようになったメリットのひとつである。昨今とんがった人々の間では、地方紙の社説と大新聞の社説を読み比べることが流行しているという。

地方紙の社説で取り上げられているトピックが、大新聞で取り上げられないことがどうにも気になって仕方がないという人たちがいる。あるいは取り上げられたとしても、全国紙と地方紙とでは切込みの鋭さに大きな違いがあるのはなぜか追求したくなるという人も最近は増えてきている。

たとえば教育基本法改正といった問題について、神戸新聞、岩手日報、中国新聞、信濃毎日新聞、琉球新報といった、地方紙の社説は切り込みが鋭く問題の本質を突いており見るべきものがあるのだが、全国紙の社説の方は往々にして論説の歯切れが悪い。

それはなぜか・・・? 責任あるメディアが情報を発信する際に、情報に対してある種のフィルターをかけるのはある意味当然のことである。だが、地方紙と全国紙とではこのフィルターの質が違うようなのである。

マスメディアが情報に対してかけるこうしたフィルターは、何段階かに分かれている。

大まかに分類すると、トップに位置するのが、誰もがその存在に気づいてはいるものの、その具体的内容が一般の社員や記者たちには知らされていない、容易に剥がすことができないフィルター。いわゆるトップシークレットという代物である。

2番目に位置するのが、情報の発信者の多くが自覚しているが受信者の側、つまり外部の人間があまり気づいていないフィルター。これはなかなか始末が悪い。内部の人間が迂闊に外部の人間に漏らすとエライ目に遭う。

新聞の裏事情に詳しい人から話を聞くとそれだけで本が一冊書けてしまうような、トピックがザクザク出てくるが、その詳細には立ち入らない。これらの層に位置するフィルターは、ジャーナリスティックな視点から解析することも可能であり、情報さえ集められれば、そのメカニズムを解明することもできるためである。
ただ注意すべきは現在は、このフィルターが厚くなりつつある時代であるということである。大新聞において良識ある記者たちが苦しい状況に置かれていることは容易に察せられる。ただ、苦しさを感じられるうちはいい方で、感覚が麻痺して苦しさが感じられなくなる方が恐ろしい。

もっとも第2番目の層まではジャーナリスティックな意識それ自身が自らの立ち位置に意識的になることで、相手にできるレベルのフィルターである。

問題は最も深層の無意識レベルに位置するフィルターである。これは、いちいち問い直していたら文化や歴史の根本まで問い直さなければならなくなってしまうので、情報の発信者と受信者の間での無意識的合意により存在しないことになっているフィルターである。この層に位置するフィルターは通常、時代が大きく転換する時期が過ぎ、その時期が歴史となって振り返って見られるようになって初めてを認識される。だが、時代の流れに逆らうことなくなおかつ流されることもなく自らの立ち位置を見失わずにいるためには時代の流れを理解する必要がある。そのためにはこの第3の層を同時代的に意識する術を身につける必要がある。だがそれは・・・至難の技である。

ジャーナリズムがどれだけ良心的であろうとしても意識し得るのは、せいぜいが2番目の層まで・・・。
良心 “conscience”という言葉は、「判断力」や、「誠実」という意味ももつが、これはもともと意識的という意味の“conscious”という言葉から派生したものだという。「意識的」
(conscious)という言葉は「正気の」という意味もある。第3の層をも意識化できるレベルで正気であるということは簡単にできることではない。
例えるなら、500年後の未来から現在を見るような醒めたまなざしを持ちながら、現在の現実を熱いまなざしで凝視し続けるような複眼的な視点の持ち主なら第3の層をも常に意識していられるのかもしれない。
だが、現代のスピード感の中で情報を発信する側がそのレベルの意識を保つことはきわめて難しい。
したがって情報を受信する側が情報の読解に際し、多少の工夫をする必要がある。

新聞という読み物を何が書かれているか・・・ではなくて何が書かれていないかという視点から読むというのもその工夫のひとつである。 これはフィルターを透かして世界を見る方法としては案外お手軽で、そうしてみると世の中の動きが驚くほどよく見える場合もある。

地方紙と大新聞の社説を比較してみるというような単純なことでも、やってみると新聞に何が書かれていないかについて、もっと敏感になるはずである。

2006年現時点においては、大新聞よりも地方紙の方が、比較的自由に物が書ける立場にあることは確かなようである。ここ当分の間は、地方紙と大新聞の記事の切り口の違いを読み比べるという新聞の読み方は一部のマニアックな人々の間では、愛好されていくことになりそうである。2006年現時点の日本ならではの新聞の楽しみ方と言えようか。

この楽しみがなくなったとき・・・つまり、地方紙の色が消えたときは、読者の側がもう一度新聞というメディアそのものに対するスタンスをリニューアルする時期が来たということである。

マスメディアによって発信される情報に対する「読解力」は、例えばそんな風にして鍛えられる。

それにしても・・・「琉球新報」は熱い
もちろん「沖縄タイムス」も十分熱い。ともかく沖縄は熱い。
そればかりか「信濃毎日新聞」も、「神戸新聞」も、「中国新聞」も・・・。
まだまだ他にも熱い新聞は全国に散らばっている。

基本的に2006年の時点では、地方紙は全国紙よりも熱い。
その理由が先に述べたフィルターの質の違いということになるのだが、ではなぜ
地方紙と全国紙ではそんなにもフィルターの質も厚みも異なるのか。

知りたい人は自ら調べてみましょう。
熱くなれますよ。

             
                                            (2006,11,30)




笑いの宅急便74便   心脳コントロール社会  パート6 
日本の教育に明日はある・・・と思いたい
情報に対する感度を高める

今、世界で何が起ころうとしているか?
刻々と変化する、世界の情勢を的確に把握するために必要とされるのは、情報の量ではない。
それよりも情報の質をみきわめる感度と情報を自分なりに読み解く読解力の方が重要である。

とはいうものの情報に対する感度を高めるための具体的な方法論を語っていくと頭脳のみならず身体性をも含む人間の全身感覚とでも言えるものをいかに駆使するかという奥深い領域に入り込んでしまう。

そのあたりになると情報の心理学の上級編とでも言えるものでそれなりの訓練を通して初めて身につくもので、よほどマニアックな読者でないかぎり引いてしまうかもしれない。
もっと手っ取り早く今すぐにでも、
情報に対する感度を高める方法はないものか・・・。

誰にでもすぐに実行できるのが「自分なりの基軸をつくる」ことである。
これはあたりまえのことに思えるが、実行すれば情報に対する感度が確実に研ぎ澄まされるはずである。

自分にとって本当に重要なものとそうでないものとを見極めるための基軸は、最終的には自分自身でを作るしかないのだが、まずはある程度誰にでも共通する基本練習から。


たとえば、
より「多くの」人たちの生活に「より長期的に」影響を及ぼすニュースという基軸をひとつ作ったとしよう。今、話題になっている教育基本法の改正案などは、間違いなく「より多くの」人たちの生活に対し「長期的に」影響を及ぼすテーマである。というわけで今日は少しこの話を・・・。

罪深い教育の影響
学校を卒業していったん社会に出てしまった大人たちは教育が自分たちの生きる社会にどのような影響を及ぼすかということが今ひとつ現実感をもって捉えられないかもしれない。だが、今、日本社会を支えている大人たちの基礎教養の大枠は 学校教育によって作られてきたことを忘れてはならない。

 例えばみなさんは中学や高校の歴史の授業で
「縄文土器の話ばっかやってんじゃねえ」と思わなかっただろうか?
私自身は、縄文学会の学会誌に論文を寄稿するほど、縄文文化を重視しているが、それと学校教育の歴史の授業のはらむ問題はまったく別次元にある。

そもそも歴史という教科は現代を出発点として、そこからさかのぼるようにして学んで初めて現実社会に適用できる発想が育つものだと私は考えている。
歴史から学ぶことの下手な日本人が出来上がってしまったことの 要因のひとつにある時期、学校の授業で近代から現代に至る歴史の授業がスッ飛ばされてしまったことが挙げられるのは言うまでもない。多くの大人たちが、なぜ最も重要なはずの近・現代の歴史が学校で教えられなかったのかを考える機会さえ持てずにいるのは、ある意味教育の成果?と言えるかもしれない。

さらには昨今、頭脳トレーニングが流行する理由のひとつとして私たちが学校教育の現場で思考トレーニングの基本的ノウハウを学んでこなかったことが挙げられる。

教育基本法の改正というような重要な問題の背景に実際にどういう問題が隠されているか、さらにはそれが自分たちの生活にどのような影響を及ぼすかを自分なりの切り口から整理できないような読解力や分析力のない大人が育ってしまった背景にも学校教育がある。
現場の先生たちの中にも問題意識の高い人はいて、私も先生たちからの相談を数多く受けてきた。熱意のある先生ほど、システムにがんじがらめにされている教育現場の現実に悩んでいる。理想の教育など考えるゆとりがないというのが多くの先生たちの嘆きのようである。

読解力のある大人を育てる 
いかにして読解力のある日本人を育てるか?本来これは学校教育が取り組むべきテーマであるが、現行の教育制度の中ではそれは難しい・・・ようなのだ。なぜそれが学校教育で難しいのかを分析し、対策を講じるためには読解力が必要なのだが、なにせ学校は読解力のある大人を育てるためのノウハウを育む余裕がない。したがってほとんど誰も何が問題なのかを解読できない・・・こうなるとほとんどマンガである。

このマンガ的状況を打破するためには、教育現場を批判したり嘆いたりするだけでなく、私たちのような民間人が行動する以外にないようである。
しかし、民間のこの方面での努力はなかなか正確に理解してもらえない(正確に読解してもらえない)ようなのである。
少し前に発売された『AERA』に、私が子どもたちの読解力の強化のために週に何時間かの時間を費やしている「国語専科教室」のことが
紹介されていたがそれはそのいい例である。
その記事では、この教室ではとりたてて入試対策のようなことはやっていないのに、麻布や武蔵といった中学に合格する生徒が多いというような側面が強調されていた。だが実はこの教室の方針としては、そうした側面が強調されることは極力避けたいのである。

なぜならこの教室でやろうとしていやろうとしていることの本質は、
「自分の頭で考えぬくことのできる人間の育成」というあまりにもシンプルなことだからである。
私たちは、子どもの考える力を育むことを考え、実践しているだけ・・・。

強靭な思考力の持ち主が入試に強いのはあたりまえ。それはいうなれば思考力を鍛えたために得られた副産物のようなものに過ぎない。

入試の結果などより大事なのは、その生徒が自分の頭脳を使いきれているかどうかなのである。
なぜなら自分の頭脳を上手に使いきれる人間は、それだけ
自由な発想のできる自由な精神の持ち主に成り得るからである。

 今後、日本という国が世界の中で生き残っていくためには、(というよりは人類が存続するためには・・・といった方が正確かもしれない)自分の頭脳を使いこなせる人間をより多く育てるしかないという根本的な認識のうえに私たちは教育を実践しているにすぎない。

こんなシンプルな話もなぜかマスメディアを通した場合、「中学受験」というような使い古されたみみっちいフィルターを通さないと一般には伝わらないらしい。進学塾なら理解できるが、本質的な考える力を養う塾など理解できない。こうした奇妙な転倒が学校教育を取り巻いているのである。

「学校教育」という文脈がいかに日本人の読解力をゆがめ、創造的な発想を奪ってきたか・・・。
この「教育」をめぐる常識、奇妙に転倒した固定概念こそが我々が当面標的にすべきターゲットのようである。
この転倒を作り出したのは、文部科学省でもなければ、現場の教師たちでも、ましてや子どもたちでもない。あえていうなら、歴史・・・長い間の時間の積み重ねが生み出したモンスターといえる。

文部科学省、教育委員会、現場の教師たち、親・・・。犯人さがしをして誰かを批判するのはたやすいが、それでは決して根本的な解決にはならない。長い時間をかけて日本人が共同で作り出した、奇妙に転倒した教育をめぐる常識を無力化するためには、理想の教育モデルを手探りで見つけ出し実践すること以外にない。

21世紀の日本人にとって、
学校教育を巡る転倒した常識に侵蝕されることのない真の読解力を回復することは「生きる」ために取り組まざるを得ない重要なテーマになろうとしている。

                                           (2006,11,18)


笑いの宅急便 第73便
情報心理学・・・心脳コントロール社会パート5
メディアによる情報のコントロール
テレビや新聞といったマスメディアによって発信される情報が、かなりの程度制限され管理されているという事実を国民の多くが認識し始めたのはいつ頃からだろうか?日本人はまだまだ情報操作という問題については、ナイーブな国民ではあるが、それでもマスメディアによって発信される情報に対して慎重なスタンスを取る人の数は以前よりは格段に増えてきているようである。
もちろんマスメディアにおける情報の管理や制限は多くの場合は意図的であるというよりは半ば無意識に行われる。
テレビでも新聞でも米国の選挙に関しては、それなりに詳しく報じられているが、ヨーロッパの選挙については、さほど詳しく報じられることはない。イギリスやフランスについては、報じられることはあっても、チェコやポーランドの政治、経済状況については情報が入手しづらい。あるいは現在スペインやポルトガルの国家元首が誰かを言える日本人は案外少ないのではないかと思う。これは何者かがチェコやポルトガルの情報を意図的に知らせまいと陰謀を張り巡らせているために生じた事態に違いない・・・とは誰も思わないであろう。(広瀬隆さんならそう思うかな・・・。)
新聞やテレビのニュースの切り口が限定されているのは何者かの意志による操作というよりは、慣例的にそうなってしまっている場合が多い。報道の切り口がある程度決まってくると情報のソース自体も固定化されてくる。新しい切り口なり情報ソースなりを開拓するにはそれなりの投資やリスクを引き受ける必要がある。なんとなく既存の文脈に依存してしまうのはある意味無理からぬことといえる。 
以前から、アメリカの選挙が報道されてきたから「なんとなく」アメリカの選挙を報道するのがあたりまえ。刻々と変化する世界のパワーバランスを的確に読み取り、今後アメリカ以上に世界の情勢に影響を与えそうな国の状況を他誌に先駆けて詳しく紹介するという報道姿勢をとる新聞が現れてもよさそうなものだが、そういう新聞はいまのところ登場していない。メディアにとって自らが長い時間をかけて作り上げてきた文脈や切り口そのものを問うのは大きなチャレンジなのだ。
だが今・・・大衆の心理や行動に対する情報の影響力が拡大する一方の時代に、情報の入手経路としてのメディアの有り方・・・そして個人や企業とメディアとの関わり方が、根源的に問い直されるべき時期が訪れようとしている。
情報の民主化とその落とし穴
人間は情報と関係を持たずに生きることのできない生き物である。山奥で生活するにしても、どこに行けば水が手に入るか、危険な場所はどこかといった生きるために不可欠の最低限の情報は必要である。だが最低限の情報で生きられた時代、すなわち生きることと情報が直結していた時代には、情報の選択に迷うことはなかった。現代は誰もが容易に情報にアクセスできる時代である。それはある意味情報が民主化されようとしているともいえるが、逆に、どこに行けば自分の生活・・・というよりも生存に直結する本質的な情報が手に入るかを見極めるのが難しくなって来ているともいえる。
心理学は、情報を取り巻く変化に対してもっとも敏感に反応してもいい領域なのだが、いまだに欧米から発信されるもはや古典といってもいいような理論の解釈で議論しているような状況にある。それは従来の心理学体系そのものが、現代における情報の特徴である同時にかつ大量、しかもスピーディーに発信される情報とコンタクトを取るための理論やノウハウを充分に蓄積してこなかったためでもある。
今、心理学に求められているのは古典的な理論をふまえながら、現代の情報を取り巻く状況が人々の内面、さらには行動にどのように影響を及ぼすかを精緻に解析しうる理論とノウハウの発見といえる。
さらに同時に大量に発信される情報が集団心理に対してどう作用するか?必要な情報とそうでない情報をいかに見分けるか?個人や企業は情報に対してどうアプローチするべきか?
こうした問いに応え得る、情報の心理学は現代人にとって切実に求められている分野である。
十分な手入れと肥料が与えられれば、洗練された情報心理学へと発展していくだけの種は実は古典的な日本文化の中に見出すことが可能である。この心理学を十分に成熟させることが出来れば、人類は情報の本質を見極め上手に活用することで、自らを取り巻く環境や心身の健康の改善に驚くほどの効果をもたらすノウハウを手に入れることができるはずである。
実はその研究の基礎は既に9割がた完成されている。

                                                (2006,11,11)




笑いの宅急便 第72便 
政治学と心理学・・・心脳コントロール社会パート4

政治的なプロパガンダに心理学的な手法が用いられることはとりたてて珍しいことではない。ナチが大衆の心理操作に長けていたことは周知の事実であり、フランスのミッテラン大統領が、国営放送を通してサブリミナルの手法を用い、お茶の間に自らの肖像を10ヶ月もの間送り続けていた事件も問題になったことがある。(フランスにお茶の間はないという声が聞こえてきそうだが、この際、その点は深く追及しない)

この事件は、日本では、あまり大きく報道されなかったようだが、日本のマスコミは今でも政治と心理学のつながりについてあまり深くは認識していないようである。日本人は、心理操作という問題についてはあまりにもナイーブな国民といえる。つまり日本人は実に洗脳されやすい国民なのである。

と言いながら私自身は心理操作といえば、なんでもかんでもヒステリックに反対する気はない。もちろんミッテラン大統領のように、サブリミナルのような手法を用いるのはさすがにやり過ぎだが、しかるべき文脈でしかるべき手法が駆使される分には、心理学の手法は政治やビジネスのフィールドにおいて大きな利益を私たちにもたらしてくれる場合もある。

私が大学時代にお世話になった、小森陽一教授は『心脳コントロール社会』の中で、小泉内閣の心理操作術の手法を精緻に分析し批判しているが、私とはいささか見解が異なる部分もある。私は政治家が心理学的手法を用いるのは基本的に「あり」だと思っている。というのは、ミッテラン大統領の例を出すまでもなく、先進国のトップたちは大衆の心理を操作するための技術の研究に余念がない。日本の政治家だけがそうした流れに無関係な特権的な立ち位置を確保できるわけもないのである。

むしろ政治家たちは、心理戦で勝利することが仕事といってもいい。国内の大衆の心を動かせない政治家が国際レベルでの心理戦で勝利できるわけもないのである。したがってセンスのある政治家ほど心理操作の手法に磨きをかけるし、いかに声高に批判したところでそれを止める術はない。とはいうものの、心理学的手法を駆使する政治やメディア、企業の側に国民の側が一方的に心理操作されるような社会が健全と言えるわけがない。

ではどうすればよいか?

答えはひとつしかない。

国民全体の読解力を向上させること。これに尽きる。政治家のやり方を批判する前に、世界がどう動こうとしているかをきちんと読み解く能力を、私たち一人一人が育くむことが重要である。

そのためには、私たち自身が自分自身の目で世界を見、考える必要がある。

過剰に流される情報の渦の中で真実を見つけ出すことは容易なことではない。だがしかるべき道筋をたどればそこに近づいていくことはできる。自分の目で世界を見、考え抜くことのできる人々が育ってきたら日本はこれまでとは違った国になってくるはずである。もちろん政治家を評価する目線も違ってくる。

国民の側が、政治家の用いている心理学の手法を見切り、その質やレベルを適確に評価し、より質の高いテクニックを駆使できる頭脳と感度を備えた政治家を国民の代表として選出できるくらいの水準になれば、世界を変えられる可能性もある。

本当に質の高い心理学の手法がしかるべき文脈で用いられれば、血を流さずにより多くの人々が幸せになれる道が見つかる可能性があると私は信じたい。信じようとしている。信じる方を選ぶことに決めた。どのような手法がどのような文脈で用いられることが望ましいかという具体的な話については、これから語っていく予定である。

ちなみに2002年に発生し現在まで続いている心理操作にまつわる「事件」の深刻さについて語ろうとするとつい口が重くなってしまう。だが、この問題は、今後の日本の教育や子どもたち、すなわち日本の未来について考える上ではずせないテーマなので、必ず語る予定である。
                                       (2006,10,26)



笑いの宅急便 第71便
二つの事件・・・心脳コントロール社会 パート3

私が米国で学んできた深層心理学の手法を日本で紹介し始めた1990年代は、心理学の未来についてある程度楽天的でいられた時代であった。 もっとも私自身は、自分の仕事の未来に完全に楽天的であったわけではない。自分が日本に紹介しようとしている手法が、用いられる方向次第ではきわめてアブナイなものになりうることも十分自覚していた。だが、ビビッているばかりでは人は前に進むことはできない。

私は、日本人の知性、品性、良識といったものを信じる方に賭けてみることにしたのだ。

この時期は、日本でも無意識の操作という問題が限られた人々の間ではあったが注目を集め始めた時期でもあった。1990年代前半くらいになるとある程度の割合の日本人に「サブリミナル」という言葉が浸透していったのではないかと思う。サブリミナルとは、通常の知覚では認識できない速さの映像を見せることで無意識に働きかける手法のことである。

「らんま1/2」(たしかこのアニメだったと思う)というアニメのオープニング映像に通常の映像の陰に隠れて見えないようにアニメの主要なキャラクターの映像が入れ込んであるのが、当時のとんがった大学生の間で話題になっていた。アニメの世界に疎い私のために、その道に詳しい後輩の女の子がビデオを一瞬とめてわざわざその映像を見せてくれた。その時にはアニメ業界の心理学的手法の研究熱心さに度肝を抜かれたものである。視聴率競争が激しいのであろう。

私は自由競争社会において、物を生産したり供給する側が何らかの形で心理学的手法を用いるのは基本的には「あり」だと思っている。ファーストフード産業が、顧客の食欲を刺激する色調で看板を統一したり、客の回転が速くなるように店内のインテリアをデザインしたりというのは、正当な企業努力の一環と言える。こういう形で心理学が用いられるならそれは世の中を面白くしてくれるし経済の活性化にもつながる。

なにしろ自由競争社会のマーケットは、商品を生産し供給する側と、消費する側との「知恵比べ」の場である。もちろん悪質なだましのテクニックから子供やお年寄りを守る必要はあるが、基本的なルールさえ守らてれいてば、知恵比べの現場はなかなかエキサイティングなものである。だが「知恵比べ」の範疇を越えて無意識の操作術的な手法が用いられるとトンデモナイ事態が発生する場合がある。 私が、深層心理学の手法を日本に紹介する際にうっすらと感じていた不安がそれだった。

それが現実化した事件が日本で本格的に表面化し始めたのは、1990年代も半ばに入ってからの話である。
1990年代半ばから2000年代の初頭にかけて、日本では心理学のマインドコントロールの手法を用いた大がかりな事件が2件起きている。


1つ目の事件は1995年、地下鉄サリン事件という形で大衆にとってわかりやすい形で勃発した。
2つ目の事件は、2002年に勃発した。だがそれは人々の目につきにくい形で発生したため、日本人の大方はまだその事件の影響力の大きさに気づいていない。そのためその事件はさほど表面化することもなく現在も進行中である。

 

                                     (2006,9,20)

 


笑いの宅急便 第70便
心脳コントロール社会 パート2
何で勉強するの?

何のために勉強するの?
中学生くらいになると早熟な子供はそんな質問を発するようになる。
子供たちにそんな風に尋ねられたときにあなたならどう答えるだろうか?
私の答えはシンプルである。

「精神的自由を保ちながら生きるため」

もちろん「学習」にはそれ以外の多様な目的があるが、
人間が何かを「学ぶ」という行為において、
発想の自由度の拡大は学習の目的の中心軸に据えられるべきテーマである。

子供たちの精神はある意味自由である。
大人たち以上に自由な発想をすることもある。
しかし、情報や経験の不足から彼らの視点の及ぶ範囲はきわめて限定されている。
その意味で彼らの発想の広がりはまだまだ不自由な状態にある。
そんな子供たちの視野が学ぶほどに広がりを持ち、豊かな発想ができるようになって
いくならば、学習の方向は基本的に間違ってはいない。

だが、彼らがある程度成熟したときに、
手に入れた情報や知識にとらわれて
発想が固定化してきたら要注意である。
人間は往々にして情報や知識が増えるほど、
発想の自在性を失いがちな生き物だからである。
そのときには、古い認識の枠組みをリニューアルして、
新しい切り口から現実に向かい合う必要がある。

「自分の頭で考える」とは例えばそういうことを自発的に
行うことであるが、これは学校では教えてくれないことである。
それは学校教育が提供する教科のどれかに属するというよりも
「考える技術」に関係する領域だからである。
そしてその「考える技術」の効果的な訓練方法は、
最新の脳科学や認知心理学の発達のおかげである程度明らかにされてきた。
しかし、こうしたノウハウは学校教育のプログラムに組み入れられてはいない。
自分の頭脳を活用する具体的なノウハウを学びたい子供や大人はその方法をどこかで
学ぶ必要がある。

私が現在、主に子供たち相手に指導している「考えるクラス」はそういう役割を担っている。

頭脳の活用方法を指導するのは実は単に「精神の自由の獲得」という抽象的な目的を果たすにとどまらない。現代という時代は、子供たちだけでなく、大人たちも相当本気で「考える」ことを学習しないことには、生きるのが困難な時代になりつつあるのである。
今後この傾向はますます強まることとなるであろう。

思考停止を誘発する罠
生きるために自らの頭脳の活用方法を学ぶ必要を感じた人は、
それを学習できる環境が整っているのが現代という時代である。
私たちはある意味恵まれた環境にいるともいえるが、事はそう単純ではない。

世の中には物事をきちんと
考えない人が多いほうが都合がいいと考える人たちもいる。
現代という時代には、そういう人たちが仕掛けた罠があちこちに張り巡らされている。
時には罠を作った張本人が自らその罠にはまったりもしているため、状況は複雑である。
そういう状況を作り出すのに、本来人々の精神の自由度を高めるために生み出された
はずの様々な学問的「知」が一役買ってしまっていると いうのは、 笑えない現実である。

「自分の頭で考える」という人間としてあたりまえのことが
想像以上に困難になっているのが、
現代という時代なのである。

『心脳コントロール社会』という本は現代社会のそうした構造を暴いた本である。

私たち一人一人が、自分の頭で考えなくなる度合いが増すにつれて
笑えない現実も増えていく。
自分の頭で物事を考え、自分の目で物を見る習慣が身についている人は当然
そういう現実に気づいている。
だが、考える習慣のない人はそういう現実にすら気づくことが難しい。
これでは考える人と考えない人との格差は広がっていくばかりである。

生きるために英知を働かせることが求められる時代。
それが現代という時代である。

自分の頭で考えるというのは人間としてもっとも基本的な行為である。
精神の自由を獲得したければ、この人間としての基本的能力を手放してはならない。
 
ちなみに私が「笑い」というジャンルを重視するのもこの自由な発想の確保という
テーマと 密接に関係しているためである。
発想の自在性を失うことは笑いを失うことに通じる。


笑いとうるおいのある人生を生きたい人は、まず自分の頭で考えることから始める必要がある。
だがその前に私たちは、この世の中に自分の頭で考えることを妨げる
どのような罠が仕掛けられているかをある程度理解しておく必要がある。
なんともややこしい時代になってしまった。

                                 (2006,8,28)


                                       


                  


バックナンバー

1爆笑する技術
1 笑いの達人
2 「おかしい」笑いと「楽しい」笑い
3 笑いの質について考える
4 オカシイ・・・。
5 もしも・・・。
6 笑いの達人への道 ある言い訳
7 達人の時間感覚
8 笑いのブレンド・・・・・笑いの質を決める二つの要素
9 2004年最後の日に(特別便&第9便)


10 笑いの文化史学
11北野 武・・・・・笑いの深層心理学
12 オネスティ
13 エロス(生の衝動)とタナトス(死の衝動)
14 笑えない夜に
15 ネイティブアメリカンの智慧〜イマジナル(想像界的)な世界への通路
16 下ネタのエクスタシー

17 源に還る・・・読むこと、書くこと、笑うこと
18 What a Wonderful World  素晴らしきこの世界
19 おびやかされる男たち
20 アダムとイブ
21 アダムの理解とイブの理解
22 イブの心理学
2 笑いのシンフォニー
23 アサジョーリの心理学
24 笑いの太陽神話
25 アマテラスとスサノオ
26 ストーリー・テリング
27 笑う神々

28 誕生伝説
29 笑いにおけるキレとコク
30 戦士の笑い、恋人の笑い
31 アマテラスとアサジョーリのデート
32 薔薇の瞑想術
33 フラワー・ブリージング・・・・花の呼吸術  パート1

34 タモリ、病、笑い
35 タモリ、アサジョーリ、悟り
36 笑いと受容・・・恋文をめぐって
37 アウエアネスとフラワーブリージング 花の呼吸 パート2
38 見通し力と笑いの力
39 花の呼吸術 パート3
40 花の呼吸術 パート4・・・大野一雄へのオマージュ


    3 笑いの臨界点


     
41花の呼吸術 パート5
42 花と笑い 花の呼吸術 パート6
43 花と死   花の呼吸術 パート7
44 感応してますか?
45感受のためのアート(技芸)



46 水無月最後の夜に
47 スキマ男伝説2005
48 深すぎるぞ!ちびくろ・さんぼ
49 ソウル・フラワー
50 ホーリーランド

     
     
51 記号がシンボルに変わるとき
52 死なないために&特別出演
53  10万年の孤独、10万年の笑い
54 エロイ、ヤバイ、愛、
55 エロイ、ヤバイ、笑い



56 ソウルフル・ブラザーズ パート1
57 ソウルフル・ブラザーズ パート2
58 ソウルフル・ブラザーズ パート3
59 ソウルフル・ブラザーズ パート4
63 ソウルフル・ブラザーズ パート5



コーヒーブレーク その1、 隣の岡田さん


60 開花のイメージング
61 桃源郷と神仙道
62 生命のゆらぎ
64 都会の真中で「時」に触れる
65 ウケない技術

 

        4、生きること、呼吸すること、笑うこと 

66 やまとことば
67 生きること 息をすること
68 生と死の境で〜金融界最前線
69 心脳コントロール社会 パート1

        

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