笑いの宅急便 バックナンバー7



  2 笑いのシンフォニー

腹の底から笑えてますか?
心理学の視点から笑いを撃つ








第34便 タモリ、病、笑い

 タモリ氏の主張
 今日のお題は、笑いと変態性である。突然ではあるが・・・。

お笑い芸人であり文化批評家でもあるタモリ氏は、「人類はみな変態である」という人類にとってきわめて重要なメッセージを一貫して発信し続けておられる。このテーゼは深層心理学的観点からも注目に値するものである。私の個人的な友人である精神科に勤務する女医さんの口から発せられた「みんな病気なのよ」という言葉は、タモリ氏の主張と相通じるものがある。似通っていながら、決定的に異なる「みんな病気」という言葉と、「みんな変態」という言葉。「病気」と「変態」の違い。それが今日のテーマである。

 精神分析学は科学的手法によりニーチェの言う「人間という疾病」と同様の結論に到達した。言語学、古典学の教授ノーマン・ブラウンによる精神分析学の精緻な読解は、人類の歴史を神経症の歴史として読み解くという衝撃的な論点を提示したが、この論点に拮抗し得るだけの論考は心理学および精神医学の分野においても未だ十分に展開され尽くしてはいない。

 人がみな精神的に病んでいるとしたら「人間という疾病」の治癒は果たして可能なのか?これは人類の未来を占うためにも十分に検討されるべき命題である。今回はタモリ氏の一貫した主張である「人類はみな変態である」というテーゼとニーチェやフロイトの提示する「人間という名の病理」というテーゼとの同一性と微妙な差異を巡ってこの問題にスポットをあてていきたい。
 
 諦観、病理、変態
 文化批評家タモリ氏当人はフロイトをまったく評価していないが、氏が一貫して繰り返している「人類はみな変態」という主張は、フロイトの読解から導きだされる「病める人間精神」という論点と図らずも一致する。しかしフロイトやニーチェといったヨーロッパ近代を代表する知性が、人類の未来に対し暗い絶望を表明するのに対しタモリ氏のあっけらかんとした突き抜け方は何だろう?

 「人類はみな変態である」という語り口からはそれ以上でもそれ以下でもなく、ただあるがままの事実を言い当てただけというある種の諦観すら漂ってくる。ニーチェは西洋人は、仏経を理解するほどには成熟していないと語ったが、ニーチェやフロイト、あるいはフロイトに続いたほとんどの心理学者たちに欠けていたのがこの諦観なのである。その諦観があるかないかの差がおそらくは、「変態」と「疾病」という微妙な表現の違いとなって表れていると言ってもあながち見当はずれではないかもしれない。

 「人はみな病んでいる」という立場に立った瞬間私たちの目の前に現れるのは、大掛かりな治療を必要とする病人たち。一方、「人はみんな変態である」という立場から見えてくるのは、治療を必要とする病人たちなどでは有り得ない。そこに現れるのは、多様な個性と無限の可能性を孕む豊かな生命の集合体である。「人類という疾病」という命題からは暗い絶望が立ちのぼるのに対し「人類はみな変態」という言葉には笑いが宿る。変態性は時として新たな文化を生む原動力ともなり得るのである。

 この「人類はみな変態」という立場をさらに前進させ深化させた地点に立ち、世界をそして人類の未来を考えて行くためには、タモリ氏の語る「変態」を単なる変態で終わらせることなく、動的かつ前向きなメタモルフォーゼという含意をも読み込んで捉えなおしてみる必要がある。メタモルフォーゼとは、もとの姿から形を変えるという意味での変身あるいは変容を意味する。

 例えば、昆虫がその発生過程において、卵、幼虫、さなぎの3段階を経過することを完全変態という。このような文脈で用いられる変態という言葉には、変容の可能性というニュアンスが加わる。こうした論点は、「人類は変態である」というテーゼから「人類は今、変態の途上にある」というダイナミックな仮説を導き出すことを可能にする。人類はみな病んでいるという代わりに、人類はみな変態であるという視点を獲得することで、我々は一歩前進することができる。さらに人類は変態であるというよりは、変態の途上にあるという動的な視点を導入することによって我々はさらに真実に接近するのである。

 この変態の過程は、一体我々をどこへ導こうとしているのか?
これこそが人文諸科学が21世紀に問い続けるべき根源的なテーマなのである。
                                            2005.4.5
                                          35便につづく

第35便 タモリ、アサジョーリ、悟り

 タモリ氏が司会を勤める「笑っていいとも」は、私がまだ少年の頃から続いているが、数十年間ほぼ毎日のように「あれ」をやり続けるタモリ氏のスタミナは驚異的である。そんなタモリ氏の笑いは、氏の「世界に厚みを与えない」という哲学によって支えられている。 

 「世界に厚みを与えないように努力する。」これはタモリ氏の言葉であるが、意味や奥行きの剥奪による笑いは、一時的にではあっても近代という時代における意味の呪縛からの解放感を味わわせてくれる。タモリ氏は、ナンセンス漫画の旗手、赤塚不二夫氏の家に居候していた経歴を持つが、氏の芸風は意味の破壊、解体による近代的な意味の重さからの解放をもくろむダダイズムとの通底する。
 
 意味の剥奪をもくろむ芸人としての最初の攻撃目標は言葉である。タモリ氏の初期の芸であるハナモゲラ語のような、奇妙奇天烈な言語は、その最たるものである。タモリ氏のこうした芸風の背景には、意味、あるいは言葉に対するなんらかのルサンチマンにも似た感情が隠されているのかもしれない。思えばヨーロッパ近代の思想の歴史は、意味を巡っての苦闘の歴史であった。
 
 ほとんどの思想家たちが意味を巡って悩み苦闘し袋小路に迷い込んだが、タモリ氏はこの迷路に迷い込む道を選ばなかった。伝聞によれば、タモリ氏は大学で哲学を専攻したが哲学に限界を感じ、芸の道に入ったという。彼はハナからヨーロッパの知識人たちをとりこにした迷路に潜り込もうとはしなかったのである。そんなタモリ氏の提供する笑いは、軽く、浅く、薄く、時にはシニカルである種ストイックである。

 だが世界は広い。迷路を相手にしないどころか、進んで迷路に潜り込み、あっさりと迷路から抜け出てくるようなタイプの人物も存在する。サイコシンセシスの創始者アサジョーリはまさにこのタイプに属する。彼は意味を巡って悩むこともなく、意味を嫌って切り捨てるのでもなく、意味を含む世界のすべてを楽しみ味わい尽くすという最も贅沢な道を選んだ。そこでは知性も感性も使いきられる必要がある。

 米国心理学界の重鎮のジェームス・ファディマン博士は、アサジョーリと直接親交を持っていたが、アサジョーリの人物像を問われた際“He was enligtened”と答えている。文字通り訳すと「彼は悟りを得ていた」となるが、これが東洋的、仏教的な悟りとどう繋がるのかの検証は別の機会に譲りたい。いずれにせよアサジョーリ流の悟りは、タモリ氏のように迷路を避けるのではなく、迷路に潜り込んでもそこを楽しみながら通り抜ける方向であることは間違いない。

 タモリ氏の提供する笑いが和食ならアサジョーリの笑いは、イタリア料理である。そのまんまでしたね。失礼いたしました。
                                             2005.4.12
                                            36便につづく

第36便 笑いと受容・・・・「恋文」をめぐって

持田香織さんの歌う「恋文」という曲
この曲を最初に耳にした時に
誰が歌っているのかを特定できなかったのは、
彼女が普段とは少し発声法に変化をつけて歌っているためかもしれない
彼女のヴォーカリストとしての非凡な表現力を感じさせる曲である
さすが井上陽水を敬愛するという持田香織さん
確かな歌唱力を備えている

その彼女の歌う曲で
考えさせられたこと
それは笑いと受容の関係である

歌の後半に登場する
“君と僕とまた笑い合えるよう”というフレーズ
笑いの心理研究家としては見逃せない部分である

このフレーズの“笑い合える”はおそらく
“許し合える”と言い換えることも可能である

男女に限らず人間同士が濃密なときを過ごせば
しばしば相手を許せなくなるような状況に出くわすものである

その関係が本物であればあるほど
こうした事態に遭遇する可能性も高まる

相手を許すためには、
私たちはまず自分自身を許さなければならない
自らの受け容れ難い部分を許し
受容する過程は
時として激しい葛藤を伴う

葛藤を乗り越え
受容が一歩進むごとに
変容のプロセスが進行し
笑いの質も変わり
人は愛する者に近づいて行く

異質な者同士の出会う
笑いのシルクロードを
時には苦しみながら
人々は歩みつづける

長い時間が経過して
それぞれがそれぞれの闘いを
終えたあと
なお笑い合える関係

そんな二人の出会いは
以前とは違う深みを持つ

二人の奏でる笑いは
以前は知らなかった

やさしさを備えている
それは、
互いの弱さもずるさも呑み込む

成熟した笑い
深い受容から生まれる笑い
                                  2005.4.19
                                (37便につづく)

第37便 アウエアネスとフラワーブリージング
                  ・・・花の呼吸術 パート2

意識の指向性
 人間の意識には、アンテナのような指向性が備わっており、同じ空間にいても人によって注意の向いている方向はまったく異なっている。人間には、この意識のアンテナを方向づける能力が備わっている。アサジョーリはそれを「意志」と呼んだ。人間は、自らに備わった注意力や感覚の向かうベクトルを意図的に方向づける能力を養い育てることもできる。それが今日のテーマである。
 
 春ですね
 道端に生えている草花の笑い声が聞こえてきそうな今日この頃・・・。人間の意識の指向性という問題を自覚せざるを得ない時期ですね。同居人と道を歩いていると彼女の道端に生えている草花に対する感覚の鋭敏さと自らの感覚の鋭敏さの度合いの差に唖然とさせられます。
 彼女によると花屋さんで売られている花はそれなりの美しさがあるけれど、道端に咲いている花の方が生命力に溢れているそうです。昨日は存在しなかった蕾やなんということのない春の葉っぱの美しさに彼女のアンテナは鋭敏に反応しているのがわかります。私は自分が彼女ほど道端の草花に対して鋭敏に反応するアンテナを備えていないのが残念です。
 
 そのせいで同じ道を歩きながら、彼女の知覚する世界と私の知覚する世界ではその豊かさも奥行きもまるで異なっています。仕方なく私は自分のアンテナに加え、彼女の感性のアンテナを借りながら春の兆しを楽しんでいる次第です。この感度の違いは、男女の違いなのか、あるいは都会育ちのせいで、私が自然環境に対する感性を育てそこなったのかといろいろ考えるがどうもそれだけではなさそうです。
 
都会化する現代人の意識とからだ
 私は地方でワークショップを開催することもあるのですが、自然環境が豊かな地域に住んでいるにも関わらず周囲の自然に対して身体が閉じている状態の人が多いのに驚かされることがしばしばあります。どうやら彼らの意識のアンテナは自然に対して向かっていないようなのです。自然環境の豊かな地域に住んでいながら、身体も意識も都会人化している人が増えているように思われます。
 
 
アウエアネスと呼吸術
 こうした問題に対して私の提唱したい解決策は、アンテナの精度を訓練によって高めるというものです。私自身もう少し自然に対するアンテナの精度を高めたいと考えているところです。
 
 自然に対する感受性を養ううえで、大事なのはどういう環境に身を置くか以上に意識のアンテナのチューニングです。アンテナのチューニングを通して私たちは自然環境に対して精妙に感応し得るアンテナを育てることも可能になるのです。「花の呼吸術」は日々の忙しい生活の中でアンテナをチューンアップするために最適の方法です。

 この呼吸法を行ううえで基本となるのは、アウエアネスです。
アウエアネスは簡単に言うと「気づき」のことですが、道端に花が咲いていても、意識のアンテナがそこに向かわなければ、花は咲いていないのも同じです。日頃道を歩きながら、私たちは春の兆しを運んでくる道端の草花にどれほどのアウエアネスを持って接しているでしょうか?
 
知覚の扉
 米文学者オルダス・ハクスリーの『知覚の扉』は、アウエアネスと共に花を見つめた時に自らが知覚した世界の詳細な記述が為されている点で貴重な記録です。彼は特殊な薬理作用を持つメスカリンの影響下にあって、薔薇、カーネーション、菖蒲(あやめ)を見つめつづけた際に自らが知覚した世界を次のように記述しています。彼の目に映る花の生命のエッセンスの描写はさすがに精妙です。
 
 「私は花を見続けた。すると生命感溢れる花の光の中に呼吸と同質の何かが感じられた。だがその呼吸は潮が引くようにして出発点に戻っては繰り返されるというものではなく、美からさらに高度な美へ、深い意味からさらに深い意味へとひたすら上昇を続ける流れそのものであった。『慈悲』あるいは、『変容』という言葉が心に浮かんだ。そしてそれこそ、目の前で展開される光の息遣いの意味そのものであった。」(ちょっと意訳してます)
 
 ハクスリーの花との対話はまだ続きがあるのですが、読んでいるとその世界に惹きこまれるような魅惑に溢れた文章ですね。ただ、ハクスリーの場合、メスカリンのような薬物の影響でその領域に入って行ったところがちょっとエレガンスに欠ける気がします。薬物などに頼らずとも、花の呼吸と自分自身の呼吸をチューニングするスキルを身に付ければ、花のメッセージを汲み取ることは可能なのです。
 アサジョーリの遺した花の呼吸術はそのことをはっきりとつかませてくれます。アウエアネスと共に一輪の花に全的な注意力を向けられれば、花が生命の秘密を開示してくれるでしょう。花の呼吸術の世界は奥が深いので、また折をみて続きを語りたいと思います。
                                   2005.4.26
                                  (38便につづく)
 

第38便 見通し力と笑いの力

 4月30日は、笑いの達人矢矧晴一郎氏と、お茶の水で和真クリニックという診療所を営む医師の福井和彦氏との合同講演会であった。矢矧氏は、ビジネスコンサルタント、福井さんは医師、私は心理学の立場からそれぞれ「夢をかなえる」というテーマについて語るという企画でしたが、御来場いただいたみなさんありがとうございました。楽しんでいただけましたでしょうか?
 
 矢矧晴一郎氏は、日本におけるビジネスコンサルタントの草分け的存在であるが、数少ない「知恵」レベルのコンサルの出来る人物である。情報や知識を提供する、あるいは理論や何らかのスキルを提供するといった形でのコンサルティングが出来る人は珍しくない。しかし、現代のように時代の流れが速くなってくると、情報はすぐに古くなる。もっと時代を動かす力の本質を見据えた「知恵レベル」でのコンサルティングが求められてくる。知恵レベルでのコンサルティングを支えるのが「考える力」であることは言うまでもないが、中でも「見通し力」は重要である。集合的なレベルでは、「見通し力」の強化は、組織体としての意志決定力の強化につながる。
 
 ここでいう「見通し力」とは私の造語だが、(既に誰かが使っているかもしれませんが見たことはありません)その本質は「流れ」を読む力である。といってもそれは占いや超能力の類ではなく、誰にでも備わっている能力の延長線上にあるものだ。私はこの能力も人間の思考力の一部としてきちんと位置づけられるし、合理的な方法で高めることが可能であると考えている。個人的なレベルでこの「見通し力」が高められると、自らの人生を貫く1本の太い流れとのかかわり方がわかってくる。そうなると、人は様々な依存性から自由になることができ、人生は前にも増して笑い、楽しめるものになってくることであろう。見通し力と笑い力にはある種の比例関係があると言える。

 「見通し力」はいくつかの要素に分けることができる。まず、情報を統一的な視点から構成する力。そしてその情報を現在、過去、未来の時間軸の流れの中で位置づけ展開させる力。そしてもうひとつは未知のものに対する感受性とでも言うものである。
 
 それではこの能力を高めるためには、どんなノウハウや訓練が有効だろうか?そしてこうした能力はどのような範囲まで適用が可能だろうか?例えば「人類の未来をよりよいものにしたい」といったテーマに対してもこの見通し力は適用できるのだろうか?こうした問いに答えるためにも少しこのテーマについて見通し力という観点から展開してみたい。
 
 人類の未来といえば、誰もが漠然とは考えているテーマであると思うが、このままではあまりにも漠然としていて、見通しも何もあったものではない。このような場合は、まず具体化の作業が必要である。例えば「未来」といっても100年後か1000年後かによっても見通しのシナリオはまるで違ってくる。これが「20年後の未来」と決まれば、我々の視線のベクトルがどこへ向かうかは自ずと決まってくる。
 
 20年後の人類の未来を見通したければ、まず世界の子どもたちに目を向ければいい。彼らこそが人類の未来だからだ。子どもたちが、今どんな環境に置かれ、何を感じどんな夢を描いているか?そこに人類の未来が映しだされている。人類の未来をよりよいものにしたければ、まずよりよい彼らの未来をイメージすることから始めたらいい。
 「見通し力」は、こうしたあたりまえの思考の積み重ねから育まれる。一瞬先は闇というが、その闇に一条の光を投げかけるのが、見通し力を備えた人間のまなざしなのである。このまなざしの投げかける光をいかに強めていくかは、人類の未来をも左右する重要なトピックである。
                                    2005.5.13
                                    39便につづく 

第39便 花の呼吸術 パート3

イマジネーションの力を借りて、心の中に花を咲かせること。
イメージの中の花の色と香りを楽しむこと。
それが花の呼吸術の基本です。

実はこのイメージングを用いた呼吸術は、男性たちにはあまり評判がよくないのです。彼らは大抵こう言います。
 「これをやってどんな効果があるのですか?何の得があるのですか?」
 
一方女性たちの多くはイメージの中の花の美しさを楽しむことができます。
「綺麗・・・ステキ・・・気持ちいい・・・」
美を純粋に楽しむこと
そこに花の呼吸術の効果の秘密が隠されています。

実は花の呼吸術には、様々な効果があります。
まず、この呼吸術を実践すると女性は大抵綺麗になります。
グループでこの呼吸術を体験した人たちはお互いの変化に驚くほどです。
その他にも心身の健康面でいろいろな効果があります。
しかし、私はあまりこの呼吸術の効果の面を強調しないようにしています。
効果に気を取られると、人間が生み出した競争原理に絡み取らかねない。
そうなると効果そのものが損なわれる可能性があるのです。

これは少々説明が必要ですね。
例えば「花の呼吸術を実行すれば、月に3万円相当の利益が発生します」
そう言われてこのイメージングを実践してもおそらく大した効果は得られないというのはなんとなく想像がつくのではないでしょうか。
そこがこの呼吸術の微妙なところです。

美しいものを純粋に美しいと感じられる人は
心の底から笑うことも出来る人です。
その人は1銭の得にもならないことに夢中になれる人です。

1銭の得にもならない
花の美しさを
祝い、楽しみ、笑う時間のない人と
ある人とでは

その人の内に流れる時間の奥行きが異なります
内的時間の奥行きの違いは表面にも現れてくるものです

日常的に流れている時間の質を変えること
それがこの呼吸術のエッセンスなのです

ある意味
この呼吸術は
ビジネスフィールドで理解されないからこそ
価値があると私は考えています。

天下の人が皆、美を美と知ったとき
そこから醜さという問題が生じる

これは老子の言葉ですが、

基本的に人間は自分たちが勝手に作った価値で物事を判断する生き物です
これはいい、これはダメ。
これは綺麗、これは綺麗じゃない。

そこから競争が発生します。

これに対しイメージの中の花の美しさは
競争原理に絡み取られることはありません

美しいものを美しいと感じ、楽しむ時間
それが人を変えるのです
少々硬い表現をすると
美を純粋に楽しむ意識の状態が大事なのです。

花の呼吸術はその人自身の最高の美との出会いの機会を提供してくれます。
そして最高の美はしばしば、人間が勝手に生み出した価値の枠組みを越えるのです。
                                      2005.5.18
                                     (40便につづく)


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