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伊藤雄二郎のさわやか系心理学

20、蘇る神話的ビート、パート9・・・浦島太郎の深層 3

喜劇としてのお伽噺
解釈と創造

長い歴史の風雪に耐えながら語り継がれてきた物語は、多様な描き込みを許す幅と深みを備えている。物語を解釈するということは、ある意味オリジナルの物語をなぞりながら自分自身の物語を描き込む行為といえる。

この意味でこれまでに登場した浦島太郎の解釈者たちは、浦島太郎の物語の空白の箇所に自分自身の世界観を描きこんでいると言える。彼らは浦島太郎の「正しい」解釈を示したというより、浦島太郎という素材を下敷きに自らの世界観を語っているのである。

悲劇のレトリック

フロイト派とユング派、それぞれの立場から解釈を展開した岸田秀と河合隼雄。そのどちらの解釈がより「正しい」かは、この際問わないことにしよう。ただひとつ確実に言えることは、二人の論客はお互い立場が違い、異なる視点から別々の物語を語っているように見えて、実はその根は同質であるということである。

すなわちどちらも浦島太郎の物語の真実を抉り出そうと試みながら、浦島の物語を悲劇として捉え、悲劇のレトリック(語り口)によって自らの世界観を語る点において。

フロイトとユングは、その鋭い対立が強調されるが、彼らの語りのスタイルはいずれも悲劇の系譜を継ぐものであった。近代という時代の悲劇の一因は、真実を語るためのレトリックとして悲劇の語り口しか持ち得なかったところにある。

悲劇と喜劇

ジョゼフ・キャンベルが半世紀も前に、『千の顔を持つ英雄』の中に書き遺した悲劇と喜劇にまつわる次のような洞察は瞠目に値する。

(喜劇に対する)近代西欧の価値判断は、(幼児用の)お伽噺、(老人用の)神話や購いの神聖喜劇に描かれた現実の全面的にあやまった解釈に基礎を据えている。この種の物語は、古代社会においては悲劇よりも高い順位(ランク)に位置づけられ、深遠な真理を湛え、いっそう困難な現実を描きだし、いっそう堅固な構造を築きあげ、啓示をいっそう完全に描き出すものと見なされていた。

 お伽噺、神話、魂の神聖喜劇に描きだされる幸運な結末は、人間悲劇の普遍性に矛盾するものとしてではなく、それを超克する意図をもつ作品として読まれるべき性質のものである。」

キャンベルが喜劇の語り口を人間の悲劇を超克する試みとして捉えている点は重要である。悲劇の語り口と喜劇の語り口を車の両輪のように働かせて初めて人は生の全体像を垣間見ることができる。悲劇の語り口で浮き彫りにできるのは、広大な生のほんの一面に過ぎないのである。

お伽噺と神仙思想

さて浦島太郎である。浦島太郎にかぎらず日本に古くから伝わる昔話が中国の神仙思想に影響を受けているという前提で解釈を進める場合、これらの物語は喜劇のレトリックによって描き直されるべきであろう。

なぜなら神仙と深いつながりのある老荘思想は、喜劇の語り口によって我々を真実にいざなってくれる数少ない教えであるからだ。老子を始祖とするタオイズム(道教)の世界はある意味喜劇の世界といえる。

老子の紡ぎだす喜劇的世界
老子の道徳経の最初の一文を思い出してみよう。
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名のなづくべきは、常の名に非ず。無名は天地の始め、有名は万物の母。」
これよりも

タオ(道)の言い得るはタオ(道)ではない。」という実際の原典とは少し異なる一文の方がピンと来る人も多いかもしれない。これは西洋に輸出されたタオイズム(老荘思想)が、東洋に逆輸入されたことで起きる現象である。
「タオ」とは天地以前の根源的な働きであるが、
老子それを言葉では表現しきれない現象であると語っているのである。

ここで老子はのっけから強烈なボケをかましている。
これから真理を言葉で語ろうというときに、
いきなり言葉による描写を否定するというラディカルな語り。
この世の誰よりも世界の深みに精通した賢者として名高い老子。
その老子がこれから深遠なる真理を語ろうとするまさにその瞬間。
全人類が息をひそめて見守っているというのに
その語りだしがこれとは。

ありえない語りである。

老子は逆説のロジック、不条理のロジックで真実を語る。
それはまさに喜劇のレトリックである。
老子の提供する笑いは底の浅いものではない。
老子は人類の悲劇、苦しみを知らずに笑っているわけではない。
彼の笑いは悲劇をも呑み込む奥行きと深みを備えている。
老子のまなざしは、悲劇と喜劇、その双方を静かに見据えている。
どれだけ言葉を尽くしてもそのまなざしに映る世界を十全に記述し尽くすことなど
出来はしない。

老子は歴史上もっとも壮大にしてもっとも深みのある笑いを人類に提供した。
たとえそれをキャッチできる者が、人類のひとにぎりであったとしても、

老子の高笑いは今も人類の意識の深層で響きつづけている。
浦島太郎の物語が、老子の系譜と繋がる神仙思想の物語と通定するのであれば、我々は喜劇としての浦島太郎のシナリオを描いてみるべきであろう。

浦島の物語に老子の光をあてれば、これまでとはまったく違う新たな物語が紡がれるであろうことは間違いない。

だがそのためには我々はもう一度、老子の世界そして神仙の世界を旅する必要がありそうである。エライことになってしまった。

                                                                 (2006,2,1)






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