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伊藤雄二郎のさわやか系心理学


蘇る神話的ビートパート10 世界で最初のLOHAS
浦島太郎の深層パート4


この世でもっとも贅沢な時間

最高級のワイン。最高級の料理。上質な音楽。
贅沢の限りを尽くすことで人々は何を手にいれようとしてきたのだろう?
快楽?幸福?至福?
この世に生まれてきた愉悦を味わい尽くす時間を手に入れるために、人間はどれだけ時間とエネルギーを投入しても飽くことがないようである。

だが地球の資源に限りがあるように物理的に得られる快楽にもやはり限界はある。それを知りつつも経済原理を軸に展開する社会は、人々の欲望を果てしもなく刺激し続けてきた。さすがに日本人の多くは既にゲームのカラクリに気づきつつあるが、それでも欲望の火が消えることはない。人間の欲望には限りがなく贅沢にも際限がない。
それにしても人が自らの欲望を満たすためには自然から、あるいは他人から何かを奪わずにはいられないのだろうか?いや、それ以前に個人の欲望は否定されるべきものなのだろうか?
こうした問いに対して根源的な回答を与えてくれる思想、理念、あるいはノウハウにどこかでめぐり合うことはできるのだろうか?

もしも元手をかけずに最高級のワインと料理、上質なもてなしと素晴らしい音楽に匹敵する、いやそれ以上の贅沢な時間が手に入るとしたら?人々はその可能性を信じられるだろうか?そしてその可能性が信じられたら今度はそれを実践する意志があるだろうか?もし最高の贅沢を味わうためにある程度の時間をかけた積み上げが必要だと知ってもそれでも人はその可能性に賭けるだろうか?それとも一握りの快楽を得るために従来通りのやり方を続けるだろうか?

老子の呼吸術
もし従来とは異なるやり方で人々が求めるものを手に入れられる可能性が存在し、この地上の1割の人間がその可能性に賭けたら世界は変わっていく可能性がある。だがそこに至る道は細くその入り口はたやすく見失われる。その入り口に気づくためには、研ぎ澄まされた感性が必要である。
呑む、食べる、触る、味わう、嗅ぐ、聴く・・・こうした五感を楽しませる刺激の中に埋没していては絶対に味わえない至福が、ある種の方法論を通して手に入れられるとしたら・・・。

私はこうしたことの起きる可能性を、ある呼吸法との出会いをきっかけに考えるようになった。私はその呼吸法を自分で勝手に「老子の呼吸術」と命名した。私が最初にその呼吸法に遭遇したのはまだ子どもの頃のことだった。右も左もわからない子どもに自分が手にしているものの真の値打ちなどわかるはずもなかったが、そこに何かがあるのは子どもにでも感じとれた。私がその呼吸法のルーツを辿ると神仙道に行き着くことを知ったのはずっと後のことだった。
その呼吸法は、あまりにも微細な感覚をもたらすものなので、過剰な刺激に慣れた現代人にとっては、きわめてわかりづらいものである。だが、一度感覚がつかめるとその呼吸法は私たちを生命の神秘との触れ合いが可能になる世界の入り口まで連れていってくれる。

万物と春を為す

神仙道あるいは、仙道という呼称は、現代人にとってはあまりにも荒唐無稽に響いてしまうため、現代の日本人にとって比較的なじみのある気功を例にあげてみよう。中国気功のルーツをさかのぼると神仙道に行き当たる。気功の世界もまだ現代人に十分受け入れられているとは言い難いが、神仙道よりは現実的に受け取れるようである。

気功法を実践したことのある人なら理解できると思うが、こうした気功の功法というものは、正しく行えば大変に気持ちのいいものである。気功法のルーツである神仙道の行法においてもその辺のことは同じである。心身ともにとろけるほどの心地よさ。そんな世界が本当にあることを実感させてくれるのがこの世界なのである。

だが経験のない人にその心地よさを伝えるというのは容易なことではない。自分の好きなスポーツの面白さを門外漢に伝えるのと同じで経験者は身体で、体感的にその事実を実感しているが、体験がない人にその感覚を伝えるために言葉はあまりにも不十分なツールなのである。

「ともかく気持ちいいんだよ」と言ったところで、伝えられるのは体験者の実感のごく一部に過ぎない。

何とかして自分の体験した心地よさを伝えるためには、いささか表現に工夫を凝らす必要がある。例えば気功の訓練を続けた末に得られる境地を表す表現のひとつに「万物と春を為す」という言い回しがある。この言葉は文字通り訳すと「あらゆるものとセックスをする」という意味になってしまうが、これでは味もそっけもない。

例えば春の桜が満開のシーズンに桜の木の下で一杯のお酒を呑んだときに感じる官能的な感覚。春の日の大自然との交歓の身も心も打ち震えるような感覚である。こうした感覚が訓練によって季節に関わりなく得られるということが「万物と春を為す」という言い回しに託されているのであり、これを文字通りの性的充足と考えるとこの表現に込められたメッセージを読み違えることになる。

浦島太郎と神仙道
『浦島太郎の文学史』(三浦佑之)という本の中では、浦島太郎の物語のルーツが徹底的に研究され、その原型がどうやら中国の神仙物語にあるらしいことが結論づけられている。
そこまで追及するまでもなく竜宮城の原型が蓬莱山であることからも浦島太郎の物語が中国の神仙道とつながりのありそうなことは容易に推測できる。神仙の物語には、名もない若者がふとしたきっかけで仙人とめぐり合い仙境に導かれるモチーフのものが多い。芥川龍之介の「杜氏春」などもこうした系譜を継ぐ物語のひとつである。
神仙道と縁のない人が、竜宮城のエピソードを聞いても、単なる絵空事としか受け取れないかもしれないが、多少なりともこうした世界と馴染みのある人からするとすぐにピンとくるものがあるはずである。竜宮城も蓬莱山も、ある種の呼吸法を実践することによって得られる至福の感覚のメタファーとして受け取ることができるのである。

もしも浦島太郎の物語が神仙道の系譜を継ぐものであるとすれば、竜宮城はある種の「行(ぎょう)」を実践する過程で人間が到達し得るある生理状態とそれに伴う意識の状態を伝える目的で生み出されたイメージの世界である可能性が高い。桃源郷では日常的な時間とは異なる時間が流れ何ひとつ欠けているものはない。
私が思い出せるかぎりで、それに近い感覚を体験させてくれたのが、老子を始祖とする道家に連綿と伝わる「老子の呼吸術」なのだ。

「老子の呼吸術」を実践し、感覚が研ぎ澄まされてくると人は通常では味わえない快感を得るが、快感を表すためのボキャブラリーというのは案外少ないものである。体験のない人に無上の快楽を伝えようとする際どんな表現が考えられるであろうか?
誰もが理解できる快感を表す風景としてすぐに思い浮かぶのが「酒はうまいしねーちゃん(もしくはにーちゃん)は綺麗だ」という俗なる風景である。この場合この風景はある種の生理状態と意識状態に伴う至福の境地をメタファーによって表現しようという工夫なのだが、経験のない者はそれを文字通りのユートピアと受け取ってしまうものなのである。

老子の呼吸術と無時間の感覚

老子の呼吸術を実践していくと、意識してそうしたわけではないのに、次第に呼吸がゆっくりになってくる。やがて自分が呼吸をしているのか、していないのかさえ定かでなくなってくる。この状態がうまく続いてくれると時間感覚を始めとする様々な日常感覚が少しづつ変化してくる。
こうしたゆったりとした呼吸は「胎息」と呼ばれているが、それがあたかも母親の胎内にいるかのような感覚を呼び起こす呼吸だからである。時間の経過が停止する際に訪れる至福感は、いかなる高級なワインでも料理でも呼び起こすことの出来ない真の贅沢を味わわせてくれる。

すべての葛藤や苦痛が、この至福の呼吸の中に溶解していくとき、人は生命がかけがえのない贈りものであり、感覚を楽しませてくれるワインも、料理も音楽もなくても、この身ひとつでそのエッセンスを味わい尽くすことができることを理解する。与えられた生命がそのままで「至福」そのものであること。息をすることはまさに「生きる」に通じるが、それがそのままで至福にいたる道だったのである。たとえほんの儚い一瞬であってもそんな感覚を確実にキャッチできれば、その時、その人の物の見方も考え方もきっと変わるはずである。

だが、実際は我々が生きている現実世界は、竜宮城とは程遠い、制限だらけの世界である。ひとときの快楽や贅沢が、不自由な世界の現実を忘れさせてくれることはあっても、それは永続するものでは有りえない。私たちが知っている世界で竜宮城に一番近い至福を感じさせてくれる世界といえば、母親の胎内である。母胎の中の記憶を無意識の領域に残している人類は、どこかに完全な充足をもたらしてくれる場所があるのではないかという望みを捨てきれず、外側の世界を捜し続ける。だが、現実の世界におけるいかなる贅沢も「それ」を与えてくれることはない。
浜崎あゆみさんが“Duty”で歌いこんでいるように
“誰もが探して欲しがっているもの、「それ」はいつかの未来にあると僕も皆も思い込んでいるよね。
なのにねまさか過去にあるだなんて一体どれ程の人 気づけるだろう 予想もつかない”のである。

我々はある意味、玉手箱を開けてしまった浦島太郎と同じ状況に置かれているのである。

玉手箱の謎

浦島太郎に登場する玉手箱は、世界中の民話や神話に繰り返し現れる「禁止」のモチーフと呼応する。アダムとイブの物語に登場する禁断の木の実やパンドラの箱・・・。こうした禁止のモチーフと玉手箱はどこかで通底するものがある。禁断の木の実を食べることによって人間は善悪を判断する物差しを手に入れるがそれと引き換えに子どものような無垢なまなざしを失ってしまう。その結果人間はエデンの園を追放されることになる。

パンドラの箱にはあらゆる災厄がつまっているわけだが、玉手箱に詰まっていたのはなんだったのだろう?私は玉手箱に詰まっていたのは日常的な「時間」であろうと思う。竜宮城という無時間性の世界に住み、充足を知っていた太郎は玉手箱を開けることで、日常的な時間の中に取り込まれることになる。太郎が玉手箱を開いた瞬間、太郎は無時間の世界に住む充足感を失い、刻々と流れる時間の世界に投げ出される。いったん流れ始めた時間はどんどん加速し進め、現代のスピード重視の時間の流れに至るまでやむことがない。(現代のような時代には、複数の時間のベクトルを使い分ける時間意識の獲得が必要になってくるが、それについては、また別の機会に語りたい。)

母親の胎内の中で至福の時を過ごしていた人間は、この世に生まれでた瞬間から「時間」の世界、絶えず変化を続け何一つ永続することのない「無常」の世界に参入する。浦島太郎が玉手箱を開けることで老人になったというくだりは、太郎が文字通り年を取ったことを示しているわけでは
なく、日常的な時間感覚の世界、「無常」の世界の中に取り込まれたことが比喩的に表現されているのである。

「パンドラの箱」「玉手箱」「禁断の木の実」。これらすべてに共通するテーマがある。人間は「智慧」を手に入れることで「時間」を知った。生と死を切り分け、世界を分節化した。動物にはない人間に特有の苦悩はそこから始まったのである。ではアダムとイブの物語に描かれているエデンの園や、竜宮城に人は戻ることが出来ないのだろうか?

もしかすると、それは可能かもしれない。老子の呼吸術はそんな感覚を抱かせてくれる。

桃源郷も竜宮城も、エデンの園も、実は私たちの身体の内に、意識の内に存在することが実感できたら人はどんな風に変化するだろうか?

その人は例えば、今はやりのLOHAS(Lifestyles of Health and Sustainability)のように振る舞い始めるかもしれない。LOHASそのものは、うっかりすると商業主義に取り込まれてしまいかねないが、老子にはそれは有りえない。老子こそは世界で最初のそして本物のLOHASであった。老子の呼吸術はそうしたライフスタイルにまつわるヒントを与えてくれる具体的な方法論なのである。

この呼吸術の実践を通して得られる「あの感覚」について語ろうとするとき、ジャズミュージシャン,マイルス・デイビスの次のような言葉を思い出す。

「初めてディズとバードを聴いた1944年のあの夜のフィーリング、あれが欲しい。もう少しというところまでは行ったことがあるが、いつもあとちょっとだ。近いところまでは行くんだ。でもやっぱり違う。それでもオレは毎日演奏する音楽にあれを求めている。もう一度あの体験を味わおうとしている。あの時の音を聴こう、感じようと求めつづけている。」

マイルス・デイビスの場合は楽器の演奏を通してある感覚を追い求めているわけだが、ただ呼吸をするだけというシンプルな行為を通して人間がどこまでイケるか、どこまで感じられるかは驚くほどである。私にとって老子の呼吸術は最高のワインと最高の音楽以上の唯一のものでもある。

時の流れと一体化した無常な世界を唯一の拠り所とし、内なる竜宮城に気づくこともなく、竜宮城への見果てぬ夢を自らの外側に描きながら生きていかざるを得ない人間の姿は、悲劇的というよりは喜劇的である。悲劇と喜劇とは案外紙一重のものなのだ。

太郎はある意味幸せだったのかもしれない。通常の人間が知ることのない時間の流れを越えた世界を垣間見ることは出来たのであるから。

新鮮な水と空気。それさえ手に入れられれば、人がその喜びを体験できる可能性は一段と高まる。だが現代ではそれすら手に入れるのが難しい。

それでも桃源郷への夢をあきらめきれない人は、呼吸に対する精妙な感覚を養う必要がある。

私が子どもの頃、老師に教わった呼吸法は、何者かに「成る」ことや悟りを「得る」ことを目的としているわけではない。むしろ自分の内側に眠っているダイヤモンドを発掘するためのテクニックだった。彼が・・・というより老子的伝統の世界が伝えてくれたのは、呼吸こそが内なる桃源郷へと向かう鍵だということだった。


                                         (2006,3、5)




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